夏・五胡(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
赫連昌
在位 425年〜428年(2年270日)
赫連昌の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書/卷95
- 即位経路
- 魏書/卷95
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
赫連昌は夏を建てた赫連勃勃の子で、父の死後に即位したが、北魏の太武帝に都の統万を奪われ、のちに北魏の将の安頡に捕らえられた。北魏では太武帝に厚遇されたが、のちに逃れようとして討たれた。
即位まで
十六国春秋は字を還国とし、勃勃の第三子として413年に太原公に封じられ潼関に鎮したと記すが、北史は第二子とする。赫連昌が太子となった経緯は書によって異なる。十六国春秋は赫連昌が太子の赫連璝を襲って殺したとだけ書き、魏書は父に背いて挙兵した赫連璝を赫連昌が破ったとする。資治通鑑は、勃勃が赫連璝を廃して末子の赫連倫を立てようとし、赫連璝が赫連倫を殺したのち、赫連昌が赫連璝を殺して太子に立てられたとする。425年に勃勃が死ぬと永安殿で即位し、大赦して承光と改元したが、魏書はこの元号を永光と書く。
治世と最期
426年、北魏の太武帝が軽騎二万(魏書は一万八千とする)で黄河を渡って統万を奇襲し、冬至の宴の最中だった赫連昌は出て戦ったが敗れ、城内へ退いた。427年、太武帝が再び攻め寄せると、赫連昌は歩騎三万で迎え撃って大敗し、城に戻れずに上邽へ逃れた。428年、陣頭で戦っていた赫連昌は、大風と砂塵の中を退く途中で馬がつまずいて落ち、北魏の安頡に捕らえられた。宋書は赫連昌を安定で生け捕りにした将を吐伐斤と書き、資治通鑑考異は、秦州で娥清に捕らえられたとする十六国春秋鈔を挙げたうえで後魏書に従っている。太武帝は赫連昌を平城へ連れ帰って妹の始平公主を娶らせ、会稽公とし、いつも側に従わせて二人だけで鹿を追うこともあった。434年、秦王に進んでいた赫連昌は北魏から逃れたが、二日後に河西の候将に討ち取られ、弟たちもみな誅された。魏書の夏伝と十六国春秋は、その最期を謀反に坐して誅されたと記す。
在位中の出来事(5件)
夏・五胡の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代武烈帝419–425年病死
- 第2代赫連昌425–428年処刑
- 第3代赫連定428–431年処刑