北魏(南北朝)第3代分裂期の王朝
太武帝拓跋燾
在位 423年12月27日〜452年3月11日(28年82日)
太武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻4下 世祖紀下/巻94 閹官・宗愛傳
- 即位経路
- 魏書 巻4上 世祖紀上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
夏の都の統万を落として北涼を降し、廃仏と崔浩の誅殺を行い、宦官の宗愛の手で最期を迎えたとされる北魏の皇帝である。魏書の史臣は、統万から河源までを平らげ、戎と華をひとつにしたことを功績に挙げる。
即位まで
明元帝の長子で、母は杜貴嬪である。422年に泰平王に封じられて国を預かり、病の明元帝に代わって政務を執ったのち、423年に即位した。
治世と最期
427年に赫連昌を破って夏の都の統万城に入った。439年には北涼の沮渠牧犍が姑臧で降った。寇謙之の道を奉じる崔浩は仏教をそしり、帝はその言を信じていた。釈老志によれば、盖呉の乱の討伐で長安に入った帝は、寺の中に武器を見つけて盖呉との通謀を疑い、崔浩の勧めもあって沙門の誅殺と仏像の破壊を命じた。446年の詔は諸州に沙門を坑し仏像を壊させるもので、太子の晃が再三諫めても容れられなかった。450年に崔浩を誅した。崔浩伝によれば、国記を刻んだ石を路傍に立てたところ、国の事を余さず書いたことが人の口にのぼり、崔浩の一族と、姻戚の盧・郭・柳の三家が滅ぼされた。帝は誅戮をのちに悔いることが多く、崔浩の死後には崔司徒は惜しいと口にしたという。451年には宋へ大軍を進めて長江に臨み、瓜歩山に行宮を築いた。同じ年に皇太子の晃が没し、魏書の本紀は死因を書かないが、宋書の索虜伝は晃が父を殺そうと謀ったため鉄の籠に入れて殺されたと書く。452年に永安宮で没し、中常侍の宗愛は喪を伏せて東平王翰を殺し、南安王の拓跋余を立てた。魏書の本紀は宗愛が帝を殺したとは書かず、同じ魏書の宗愛伝と北史、資治通鑑は宗愛の仕業とし、宋書の索虜伝は病死とする。