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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))第4代分裂期の王朝

文成帝(ぶんせいてい)拓跋(たくばつ)濬(しゅん)

在位 452年10月31日〜465年6月20日(12年235日)

姓拓跋(たくばつ)諱濬(しゅん)廟号高(こう)宗(そう)

文成帝の人物データ

生年
440年7月
在位
  • 452年10月31日〜465年6月20日
在位 12年235日長さは365名中108位
没年
465年6月20日26歳(数え年)267名中長寿順206位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻5 高宗紀
即位経路
魏書 巻40 陸俟傳(附陸麗傳)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

宗愛(そうあい)の乱で南安王(なんあんおう)拓跋余(たくばつよ)が殺されたあと、重臣たちに迎えられて即位した北魏(ほくぎ)の皇帝で、太武帝(たいぶてい)が禁じた仏法を復した。魏書(ぎしょ)の史臣(ししん)は、世祖(せいそ)の征戦で国が疲れ、内乱で朝野が揺れたあとを静かに鎮めて徳を布いたと評する。

即位まで

太子(たいし)拓跋晃(たくばつこう)の長子で、母は閭氏(りょし)であり、東宮(とうぐう)で生まれた。祖父の太武帝(たいぶてい)に愛されて常に側に置かれ、世嫡皇孫(せいてきこうそん)と呼ばれた。太武帝(たいぶてい)が死ぬと、宗愛(そうあい)は南安王(なんあんおう)拓跋余(たくばつよ)を立てたが、権を奪われるのを恐れてその拓跋余(たくばつよ)を夜に殺した。羽林郎(うりんろう)の劉尼(りゅうじ)が皇孫を立てるよう勧めても、宗愛(そうあい)は聞かなかった。劉尼(りゅうじ)は源賀(げんが)に告げ、源賀(げんが)は陸麗(りくれい)と謀り、源賀(げんが)と長孫渇侯(ちょうそんかっこう)が宮を固めるなか、劉尼(りゅうじ)と陸麗(りくれい)が苑中(えんちゅう)から皇孫を迎え、陸麗(りくれい)が馬上に抱いて京城(けいじょう)に入った。452年、文成帝(ぶんせいてい)は永安(えいあん)前殿で即位して大赦・改元(かいげん)し、宗愛(そうあい)らは三族(さんぞく)を滅ぼされた。魏書(ぎしょ)の世祖(せいそ)紀(き)は迎えたのを長孫渇侯(ちょうそんかっこう)と陸麗(りくれい)とし、高(こう)宗(そう)紀(き)はこの経緯を記さない。宋書(そうじょ)の索虜伝(さくりょでん)はまったく別の筋を書き、宗愛(そうあい)が立てたのは呉王(ごおう)博真(はくしん)で、燕王(えんおう)が博真(はくしん)と宗愛(そうあい)を殺して文成帝(ぶんせいてい)を立てたとする。

治世と最期

453年の初め、高(こう)宗(そう)紀(き)は初めて仏法を復したと一句だけ記す。魏書(ぎしょ)の釈老志(しゃくろうし)によれば、州郡県(しゅうぐんけん)に仏図(ぶっと)を一区ずつ建てることと、良家の者の出家を認め、壊された寺が修復されて仏像や経論(きょうろん)がふたたび世に出た。廃仏の間も還俗を装って道を守った師賢(しけん)らの髪を自ら下ろし、沙門統(しゃもんとう)の曇曜(どんよう)の請いで、京城(けいじょう)の西の武州塞(ぶしゅうさい)の山壁に五つの窟が開かれた。456年に馮氏(ふうし)を皇后に、子の拓跋弘(たくばつこう)を皇太子に立てた。458年には自ら漠を渡り、柔然(じゅうぜん)は遠く逃れた。460年、崔(さい)浩(こう)の誅殺(ちゅうさつ)以来廃されていた史官(しかん)が置き直された。465年に太華殿(たいかでん)で崩じた。高(こう)宗(そう)紀(き)は病名も死因も書いておらず、このサイトの死因が病死となっているのは、魏書(ぎしょ)と北史(ほくし)に暗殺の記述が無いためである。

在位中の出来事(17件)

改元452年10月31日元号を「興安」とする
大赦452年10月31日正平二年十月戊申、永安前殿にて即位。
被反乱452年12月陇西屠各王景文の乱
改元454年元号を「興光」とする
大赦454年
改元455年元号を「太安」とする
大赦456年
立后456年
被反乱456年丁零の乱(井陉山)
大赦458年
残り7件を表示
親征458年蠕蠕(柔然)
改元460年元号を「和平」とする
大赦460年
被反乱460年河西胡族の反乱
被反乱461年博陵深沢・章武束州の反乱(県令殺害)
被反乱462年雍州氐族仇傉檀等の反乱
大赦465年2月13日

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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