北魏(南北朝)第4代分裂期の王朝
文成帝拓跋濬
在位 452年10月31日〜465年6月20日(12年235日)
文成帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻5 高宗紀
- 即位経路
- 魏書 巻40 陸俟傳(附陸麗傳)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宗愛の乱で南安王拓跋余が殺されたあと、重臣たちに迎えられて即位した北魏の皇帝で、太武帝が禁じた仏法を復した。魏書の史臣は、世祖の征戦で国が疲れ、内乱で朝野が揺れたあとを静かに鎮めて徳を布いたと評する。
即位まで
太子拓跋晃の長子で、母は閭氏であり、東宮で生まれた。祖父の太武帝に愛されて常に側に置かれ、世嫡皇孫と呼ばれた。太武帝が死ぬと、宗愛は南安王拓跋余を立てたが、権を奪われるのを恐れてその拓跋余を夜に殺した。羽林郎の劉尼が皇孫を立てるよう勧めても、宗愛は聞かなかった。劉尼は源賀に告げ、源賀は陸麗と謀り、源賀と長孫渇侯が宮を固めるなか、劉尼と陸麗が苑中から皇孫を迎え、陸麗が馬上に抱いて京城に入った。452年、文成帝は永安前殿で即位して大赦・改元し、宗愛らは三族を滅ぼされた。魏書の世祖紀は迎えたのを長孫渇侯と陸麗とし、高宗紀はこの経緯を記さない。宋書の索虜伝はまったく別の筋を書き、宗愛が立てたのは呉王博真で、燕王が博真と宗愛を殺して文成帝を立てたとする。
治世と最期
453年の初め、高宗紀は初めて仏法を復したと一句だけ記す。魏書の釈老志によれば、州郡県に仏図を一区ずつ建てることと、良家の者の出家を認め、壊された寺が修復されて仏像や経論がふたたび世に出た。廃仏の間も還俗を装って道を守った師賢らの髪を自ら下ろし、沙門統の曇曜の請いで、京城の西の武州塞の山壁に五つの窟が開かれた。456年に馮氏を皇后に、子の拓跋弘を皇太子に立てた。458年には自ら漠を渡り、柔然は遠く逃れた。460年、崔浩の誅殺以来廃されていた史官が置き直された。465年に太華殿で崩じた。高宗紀は病名も死因も書いておらず、このサイトの死因が病死となっているのは、魏書と北史に暗殺の記述が無いためである。