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武帝の肖像

陳(ちん)(南北朝(なんほくちょう))第1代分裂期の王朝

武帝(ぶてい)陳霸先(ちんはせん)

在位 557年11月16日〜559年8月9日(1年266日)

姓陳(ちん)諱霸先(はせん)字興国(こうこく)幼名法生(ほうしょう)廟号高祖(こうそ)

武帝の人物データ

生年
503年
在位
  • 557年11月16日〜559年8月9日
在位 1年266日長さは365名中271位
没年
559年8月9日57歳(数え年)267名中長寿順48位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 敬帝梁・南北朝武帝と敬帝に血縁はない
次代
  • 文帝陳文帝は武帝の甥

出典(死因・即位経路)

死因
陳書/卷二 本紀第二 高祖下
即位経路
陳書/卷二 本紀第二 高祖下

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

王僧辯(そうべん)とともに侯景(こうけい)を滅ぼし、のちにその王僧辯(そうべん)を殺して梁(りょう)の実権を握り、禅譲(ぜんじょう)を受けて陳を建てた。陳の姚(よう)察は、漢の高祖(こうそ)と魏(ぎ)の武帝(ぶてい)に次ぐ人物と評した。

即位まで

呉興(ごこう)長城(ちょうじょう)の人で、梁(りょう)の天監(てんかん)二年に生まれた。551年、王僧辯(そうべん)の侯景(こうけい)討伐軍が食糧に困ると、蓄えていた軍糧五十万石のうち三十万石を出した。552年、王僧辯(そうべん)と壇を築いて盟約し、石頭城(せきとうじょう)の戦いで侯景(こうけい)軍を大破した。555年、王僧辯(そうべん)が北斉(ほくせい)の送り込んだ蕭淵明(しょうえんめい)を迎えて即位させると、陳霸先(ちんはせん)は不可として何度も争ったが、聞き入れられなかった。資治通鑑(しじつがん)によれば、王僧辯(そうべん)は子の王頠(ぎ)に陳霸先(ちんはせん)の娘を娶(めと)らせようとするほど親しかった。同じ年、陳霸先(ちんはせん)は夜に南徐州(なんじょしゅう)を発して石頭城(せきとうじょう)を襲い、風に乗じて火を放ち、王僧辯(そうべん)父子を擒(とら)えてその夜に縊(くび)り殺した。資治通鑑(しじつがん)によれば、王僧辯(そうべん)から北斉(ほくせい)軍来寇(らいこう)の報が届いたのを機に陳霸先(ちんはせん)は挙兵し、王僧辯(そうべん)は南門の楼で拝して哀れみを請うた。北斉(ほくせい)軍は結局来なかったが、資治通鑑(しじつがん)はこれを陳霸先(ちんはせん)の詐りではないとする。556年、建康(けんこう)近くに迫った北斉(ほくせい)軍を大破した。557年、陳王(ちんおう)に進んだのち梁(りょう)の敬帝(けいてい)から禅譲(ぜんじょう)を受けて即位し、永定(えいてい)と改元(かいげん)して、敬帝(けいてい)を江陰王(こういんおう)とした。

治世と最期

即位の年、王琳(おうりん)討伐に向かった周文育(ぶんいく)・侯安都(あんと)が郢州(えいしゅう)で敗れて捕らえられ、王琳(おうりん)は翌年に梁(りょう)の永嘉王(えいかおう)蕭荘(しょうそう)を立てた。558年、江陰王(こういんおう)が没した。陳書(ちんじょ)は死因に触れないが、南史(なんし)は陳の意によるものと書き、資治通鑑(しじつがん)は陳霸先(ちんはせん)が人をやって殺させたとする。559年、病に倒れ、一時やや癒えたが再び重くなって璿璣殿(せんきでん)で崩じ、遺詔(いしょう)で兄の子の陳(ちん)蒨(せん)が位を継いだ。資治通鑑(しじつがん)によれば、皇子の陳昌(しょう)が長安(ちょうあん)にいたため、章皇后(こうごう)が喪を伏せて陳(ちん)蒨(せん)を急ぎ召した。

在位中の出来事(5件)

被反乱557年11月王琳・蕭荘(北斉支援下の対立梁政権「天啓」)の抵抗
改元557年11月16日元号を「永定」とする
大赦557年11月16日
立后557年11月22日
被反乱559年7月19日熊昙朗の反乱

陳の歴代皇帝

5名の一覧

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