梁・南北朝分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
蕭淵明
在位 555年8月30日〜555年10月27日(58日)
蕭淵明の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 南史 卷八 梁本紀下
- 即位経路
- 南史 卷八 梁本紀下
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
東魏に捕らえられていた梁の宗室で、北斉に送り返されて王僧辯に梁の帝として迎えられたが、陳霸先が王僧辯を殺すと退けられた。
即位まで
梁の武帝の兄である長沙王蕭懿の子で、武帝に親しまれて貞陽侯に封じられた。北斉書や南史は名を蕭明と書く。547年、侯景の帰順を受けた梁の北伐で都督となったが、寒山で東魏の慕容紹宗に大敗して捕らえられた。南史の列伝によれば、敗れたとき酔って起き上がれず、東魏では高澄に厚く遇された。555年、北斉の文宣帝は蕭淵明を梁の主と定め、上党王高渙に兵を付けて送らせた。文宣帝は王僧辯に書を送り、武帝の甥で年齢も声望も金陵を保つに足ると受け入れを求めた。蕭淵明も帰国して統を継ぎたいと繰り返し書き送ったが、王僧辯は応じなかった。北斉軍が東関で裴之横を破ると、王僧辯は恐れて受け入れに転じた。陳書によれば、陳霸先は受け入れに反対し、何度も王僧辯と争った。同じ年、蕭淵明は長江を渡って建康に入り、帝位に即いて天成と改元し、のちの敬帝の蕭方智を皇太子とした。建康に入った月を梁書と南史の敬帝紀は北斉書や資治通鑑と2か月違えて書く。
治世と最期
朱雀門を望んで慟哭し、宿所に着くまで僧俗の挨拶にも泣いて応えた。王僧辯を大司馬とし、子の蕭章を北斉へ送って謝意を示した。同じ年、陳霸先が王僧辯を襲って殺し、蕭淵明を廃した。陳書によれば、その2日後に蕭淵明は位を退き、百官は敬帝に即位を勧めた。敬帝が即位すると司徒・建安郡公とされ、ついで太傅に移った。556年、北斉が返還を求め、陳霸先が送り出そうとしたところで、背中の疽が悪化して死んだ。南史の敬帝紀は太傅の建安公が薨じたとだけ書く。のちに北斉の文宣帝が永嘉王蕭荘を送って梁の祀を継がせると、蕭淵明は閔皇帝と追諡された。