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梁(りょう)・南北朝(なんほくちょう)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

蕭淵明(しょうえんめい)

在位 555年8月30日〜555年10月27日(58日)

姓蕭(しょう)諱淵明(えんめい)字靖通(せいつう)別称貞陽侯(ていようこう)

蕭淵明の人物データ

生年
不詳
在位
  • 555年8月30日〜555年10月27日
在位 58日長さは365名中346位
没年
556年6月2日
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立対立・僭称の皇帝
先代
  • 元帝梁・南北朝蕭淵明は元帝の従兄弟
次代

出典(死因・即位経路)

死因
南史 卷八 梁本紀下
即位経路
南史 卷八 梁本紀下

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

東魏(とうぎ)に捕らえられていた梁(りょう)の宗室(そうしつ)で、北斉(ほくせい)に送り返されて王僧辯(そうべん)に梁(りょう)の帝として迎えられたが、陳霸先(ちんはせん)が王僧辯(そうべん)を殺すと退けられた。

即位まで

梁(りょう)の武帝(ぶてい)の兄である長沙王(ちょうさおう)蕭懿(しょうい)の子で、武帝(ぶてい)に親しまれて貞陽侯(ていようこう)に封じられた。北斉(ほくせい)書や南史(なんし)は名を蕭(しょう)明と書く。547年、侯景(こうけい)の帰順を受けた梁(りょう)の北伐(ほくばつ)で都督となったが、寒山(かんざん)で東魏(とうぎ)の慕容(ぼよう)紹宗(しょうそう)に大敗して捕らえられた。南史(なんし)の列伝(れつでん)によれば、敗れたとき酔って起き上がれず、東魏(とうぎ)では高澄(こうちょう)に厚く遇された。555年、北斉(ほくせい)の文宣帝(ぶんせんてい)は蕭淵明(しょうえんめい)を梁(りょう)の主と定め、上党王(じょうとうおう)高渙(かん)に兵を付けて送らせた。文宣帝(ぶんせんてい)は王僧辯(そうべん)に書を送り、武帝(ぶてい)の甥(おい)で年齢も声望も金陵(きんりょう)を保つに足ると受け入れを求めた。蕭淵明(しょうえんめい)も帰国して統を継ぎたいと繰り返し書き送ったが、王僧辯(そうべん)は応じなかった。北斉(ほくせい)軍が東関で裴之横(はいしおう)を破ると、王僧辯(そうべん)は恐れて受け入れに転じた。陳書(ちんじょ)によれば、陳霸先(ちんはせん)は受け入れに反対し、何度も王僧辯(そうべん)と争った。同じ年、蕭淵明(しょうえんめい)は長江(ちょうこう)を渡って建康(けんこう)に入り、帝位に即いて天成(てんせい)と改元(かいげん)し、のちの敬帝(けいてい)の蕭(しょう)方智(ほうち)を皇太子とした。建康(けんこう)に入った月を梁書(りょうしょ)と南史(なんし)の敬帝(けいてい)紀(き)は北斉(ほくせい)書や資治通鑑(しじつがん)と2か月違えて書く。

治世と最期

朱雀門(すざくもん)を望んで慟哭(どうこく)し、宿所に着くまで僧俗の挨拶にも泣いて応えた。王僧辯(そうべん)を大司馬(しば)とし、子の蕭(しょう)章を北斉(ほくせい)へ送って謝意を示した。同じ年、陳霸先(ちんはせん)が王僧辯(そうべん)を襲って殺し、蕭淵明(しょうえんめい)を廃した。陳書(ちんじょ)によれば、その2日後に蕭淵明(しょうえんめい)は位を退き、百官は敬帝(けいてい)に即位を勧めた。敬帝(けいてい)が即位すると司徒(しと)・建安(けんあん)郡公(ぐんこう)とされ、ついで太傅(たいふ)に移った。556年、北斉(ほくせい)が返還を求め、陳霸先(ちんはせん)が送り出そうとしたところで、背中の疽(そ)が悪化して死んだ。南史(なんし)の敬帝(けいてい)紀(き)は太傅(たいふ)の建安(けんあん)公が薨(こう)じたとだけ書く。のちに北斉(ほくせい)の文宣帝(ぶんせんてい)が永嘉王(えいかおう)蕭荘(しょうそう)を送って梁(りょう)の祀(まつ)を継がせると、蕭淵明(しょうえんめい)は閔皇帝(びんこうてい)と追諡(ついし)された。

在位中の出来事(3件)

改元555年8月30日元号を「天成」とする
大赦555年8月30日
被反乱555年10月27日陳霸先による王僧辯襲殺・蕭淵明廃位のクーデター

梁・南北朝の歴代皇帝

9名の一覧

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