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梁(りょう)・南北朝(なんほくちょう)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

蕭紀(しょうき)

在位 552年5月16日〜553年8月5日(1年81日)

姓蕭(しょう)諱紀(き)字世詢(せいじゅん)別称武陵王(ぶりょうおう)

蕭紀の人物データ

生年
不詳
在位
  • 552年5月16日〜553年8月5日
在位 1年81日長さは365名中279位
没年
553年8月5日46歳(数え年)267名中長寿順99位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
自立対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
梁書 卷55 列傳49/資治通鑑 卷165 梁紀21
即位経路
梁書 卷55/南史 卷八 梁本紀下

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭紀(しょうき)は梁(りょう)の武帝(ぶてい)の第八子の武陵王(ぶりょうおう)で、552年、益州(えきしゅう)で帝を称して天正(てんせい)と改元(かいげん)した。蜀(しょく)の大軍で長江(ちょうこう)を下って兄の元帝(げんてい)蕭(しょう)繹(えき)と争ったが、軍が潰えて553年に斬られた。

即位まで

資治通鑑(しじつがん)によれば、蕭紀(しょうき)は蜀(しょく)に十七年あって寧州(ねいしゅう)や越巂(えっすい)を開き、財用と武具を蓄えていた。梁書(りょうしょ)の列伝(れつでん)によれば、侯景(こうけい)の乱のとき蕭紀(しょうき)は救援に赴かず、武帝(ぶてい)が崩じたのちに蜀(しょく)で帝号(ていごう)を称した。資治通鑑(しじつがん)は、寝殿の柏の柱に花が生じたのを己の瑞祥(ずいしょう)として即位したと記す。その年と日を南史(なんし)の列伝(れつでん)は梁書(りょうしょ)の元帝(げんてい)紀(き)や資治通鑑(しじつがん)と違えて記している。蕭紀(しょうき)は子の蕭(しょう)円照(えんしょう)を皇太子に立て、梁書(りょうしょ)によれば諫(いさ)めた司馬(しば)の王僧略(そうりゃく)らを殺した。

治世と最期

552年、蕭紀(しょうき)は巴(は)・蜀(しょく)の大軍を率いて舟を連ねて東へ下り、元帝(げんてい)は陸法和(ほうわ)を巴峡(はきょう)に置いて防がせた。その留守に西魏(せいぎ)の尉遅迥(うっちけい)が蜀(しょく)に迫り、潼州(どうしゅう)刺史(しし)の楊(よう)乾運(けんうん)が城ごと降った。資治通鑑(しじつがん)によれば、侯景(こうけい)がすでに平定されたと知った蕭紀(しょうき)は悔いたが、帝号(ていごう)を称した以上は人の下には立てないとして東進を続けた。元帝(げんてい)は蜀(しょく)に帰ればその地を任せると書を送ったが、蕭紀(しょうき)は従わず、形勢が悪くなってから和を求めると、今度は元帝(げんてい)が拒んだ。553年、硖口(きょうこう)の城主が斬られて降り、蕭紀(しょうき)の軍は大いに潰えた。梁書(りょうしょ)の列伝(れつでん)によれば、将軍の樊(はん)猛が蕭紀(しょうき)とその子の蕭(しょう)円満(えんまん)を捕らえて硖口(きょうこう)でともに殺した。南史(なんし)と資治通鑑(しじつがん)は、元帝(げんてい)が樊(はん)猛に生かして還せば功とせぬと密かに命じたと記すが、梁書(りょうしょ)にこの密命は無い。死後、蕭紀(しょうき)は属籍(ぞくせき)を絶たれ、饕餮(とうてつ)氏の姓を与えられた。

在位中の出来事(3件)

改元552年5月16日元号を「天正」とする
親征552年9月〜553年8月元帝蕭繹(江陵政権)
被反乱552年9月〜553年8月蕭紀(武陵王紀)挙兵に対する元帝側の鎮圧

梁・南北朝の歴代皇帝

9名の一覧

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