本文へスキップ
愍帝の肖像

西晋(せいしん)第6代統一王朝

愍帝(びんてい)司馬(しば)鄴(ぎょう)

在位 313年6月7日〜316年12月11日(3年188日)

姓司馬(しば)諱鄴(ぎょう)字彦旗(げんき)

愍帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 313年6月7日〜316年12月11日
在位 3年188日長さは365名中213位タイ
没年
318年2月7日18歳(数え年)267名中長寿順244位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 懐帝西晋愍帝は懐帝の甥
次代
—
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第五 孝愍帝
即位経路
晉書 帝紀第五 孝愍帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

洛陽(らくよう)陥落ののち長安(ちょうあん)で擁立された西晋(せいしん)の皇帝で、劉曜(りゅうよう)に囲まれて降伏し、平陽(へいよう)で劉聡(りゅうそう)に辱められた末に殺された。

即位まで

武帝(ぶてい)の孫で、呉孝王(ごこうおう)司馬晏(しばあん)の子であり、伯父の秦献王(しんけんおう)の後を継いで秦王(しんおう)となった。資治通鑑(しじつがん)はその名を業と書き、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は、三十国晋春秋(さんじっこくしんしゅんじゅう)が子業(しぎょう)または業と書くのに従ったと記す。洛陽(らくよう)が落ちると、閻鼎(えんてい)らに奉じられて長安(ちょうあん)へ向かい、賈疋(かしょ)の兵に迎えられて長安(ちょうあん)に入った。312年、長安(ちょうあん)で皇太子に奉じられた。翌年、懐帝(かいてい)の死の知らせが届くと即位して大赦・改元(かいげん)した。本紀(ほんぎ)は、即位のころの長安(ちょうあん)は戸数が百に満たず、公私の車は四両しかなかったと記す。

治世と最期

316年、劉曜(りゅうよう)が長安(ちょうあん)に迫って内外が断たれ、大飢饉(だいききん)で人が相食み、麹(きく)允(いん)が麹(こうじ)を砕いて粥(かゆ)にして司馬(しば)鄴(ぎょう)に供したが、それも尽きた。司馬(しば)鄴(ぎょう)は、民を屠戮(とりく)の苦しみから免れさせるため、城が陥ちないうちに降ると麹(きく)允(いん)に泣いて告げた。使者を劉曜(りゅうよう)へ送ったうえで、羊車(ようしゃ)に乗り肉袒(にくたん)して棺を担がせ、城を出て降った。平陽(へいよう)に移されて劉聡(りゅうそう)から懐安侯(かいあんこう)とされ、劉聡(りゅうそう)の前で稽首(けいしゅ)し、麹(きく)允(いん)は伏して慟哭(どうこく)し自殺した。劉聡(りゅうそう)は狩猟で司馬(しば)鄴(ぎょう)に戎服(じゅうふく)で戟(げき)を執らせて先導させ、見物の故老が涙を流すと、これを憎んだ。宴では酒を注ぎ杯を洗わせ、司馬(しば)鄴(ぎょう)を抱いて慟哭(どうこく)した辛賓は殺された。晋書(しんじょ)の劉聡(りゅうそう)載記(さいき)によれば、子の劉粲(りゅうさん)が兵を挙げる者はみな司馬(しば)鄴(ぎょう)を名目にしているとして除くよう説き、劉聡(りゅうそう)はこれを然りとした。資治通鑑(しじつがん)では、劉聡(りゅうそう)はいったんまだ殺すに忍びないと退けている。318年の初め、司馬(しば)鄴(ぎょう)は平陽(へいよう)で殺された。本紀(ほんぎ)・載記(さいき)・資治通鑑(しじつがん)とも、手を下した者と殺し方を記さない。

在位中の出来事(11件)

被反乱313年夏鉄(王恢教唆)の反乱
遷都313年洛陽 → 長安
改元313年6月7日元号を「建興」とする
大赦313年6月7日建興元年四月壬申、即位に伴う大赦。
被反乱313年8月〜315年8月杜弢の乱(湘州流民反乱・鎮圧完了)
被反乱313年12月〜314年3月流人楊武の梁州侵攻
被反乱315年周勰・徐馥の反乱(呉興)
被反乱316年6月平夷太守雷照の離反
大赦日付不詳建興二年(314年)正月丁丑、大赦。
大赦日付不詳建興三年(315年)四月、大赦。
残り1件を表示
大赦日付不詳建興三年(315年)六月辛巳、大赦。

西晋の歴代皇帝

5名の一覧

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。