
西晋第6代統一王朝
愍帝司馬鄴
在位 313年6月7日〜316年12月11日(3年188日)
姓司馬諱鄴字彦旗
愍帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第五 孝愍帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第五 孝愍帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
洛陽陥落ののち長安で擁立された西晋の皇帝で、劉曜に囲まれて降伏し、平陽で劉聡に辱められた末に殺された。
即位まで
武帝の孫で、呉孝王司馬晏の子であり、伯父の秦献王の後を継いで秦王となった。資治通鑑はその名を業と書き、資治通鑑考異は、三十国晋春秋が子業または業と書くのに従ったと記す。洛陽が落ちると、閻鼎らに奉じられて長安へ向かい、賈疋の兵に迎えられて長安に入った。312年、長安で皇太子に奉じられた。翌年、懐帝の死の知らせが届くと即位して大赦・改元した。本紀は、即位のころの長安は戸数が百に満たず、公私の車は四両しかなかったと記す。
治世と最期
316年、劉曜が長安に迫って内外が断たれ、大飢饉で人が相食み、麹允が麹を砕いて粥にして司馬鄴に供したが、それも尽きた。司馬鄴は、民を屠戮の苦しみから免れさせるため、城が陥ちないうちに降ると麹允に泣いて告げた。使者を劉曜へ送ったうえで、羊車に乗り肉袒して棺を担がせ、城を出て降った。平陽に移されて劉聡から懐安侯とされ、劉聡の前で稽首し、麹允は伏して慟哭し自殺した。劉聡は狩猟で司馬鄴に戎服で戟を執らせて先導させ、見物の故老が涙を流すと、これを憎んだ。宴では酒を注ぎ杯を洗わせ、司馬鄴を抱いて慟哭した辛賓は殺された。晋書の劉聡載記によれば、子の劉粲が兵を挙げる者はみな司馬鄴を名目にしているとして除くよう説き、劉聡はこれを然りとした。資治通鑑では、劉聡はいったんまだ殺すに忍びないと退けている。318年の初め、司馬鄴は平陽で殺された。本紀・載記・資治通鑑とも、手を下した者と殺し方を記さない。
在位中の出来事(11件)
被反乱313年夏鉄(王恢教唆)の反乱
遷都313年洛陽 → 長安
改元313年6月7日元号を「建興」とする
大赦313年6月7日建興元年四月壬申、即位に伴う大赦。
被反乱313年8月〜315年8月杜弢の乱(湘州流民反乱・鎮圧完了)
被反乱313年12月〜314年3月流人楊武の梁州侵攻
被反乱315年周勰・徐馥の反乱(呉興)
被反乱316年6月平夷太守雷照の離反
大赦日付不詳建興二年(314年)正月丁丑、大赦。
大赦日付不詳建興三年(315年)四月、大赦。
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大赦日付不詳建興三年(315年)六月辛巳、大赦。