前趙・漢趙(五胡十六国)第5代分裂期の王朝
劉曜
在位 318年〜329年(10年95日)
劉曜の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 318年〜329年
- 没年
- 329年
- 死因
- 処刑非業の死・365名中34名
- 即位経路
- 推戴帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
- 目立つ記録
- 立后3回(202名中5位タイ)
- 親征6回(109名中6位タイ)
- 遷都1回(42名中9位タイ)
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第三 劉曜
- 即位経路
- 晉書 載記第三 劉曜
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉曜は劉淵の族子で、靳準の乱のさなかに皇帝の位に即き、長安に都して国号を趙と改めた。後趙の石勒との洛陽での決戦に敗れて捕らえられ、のちに殺された。
即位まで
字は永明で、幼くして父を失い劉淵に養われた。晋書の懐帝紀は劉曜を劉聡の従弟としており、載記とは続柄の書き方が異なる。相国として長安に鎮していたが、平陽で靳準の乱が起こると長安を発ち、赤壁まで来たところで呼延晏らに尊号を奉られた。318年、まだ靳準が平陽で健在なうちに即位し、靳準の一門だけを除いて大赦して光初と改元した。その後、靳準は部下に殺され、推された靳明が伝国の六璽を奉じて降ったが、劉曜は靳明を誅して靳氏をことごとく殺した。
治世と最期
長安に遷都し、水徳で晋の金徳を承けるとして国号を趙と定め、資治通鑑はこれを319年のこととする。323年には自ら隴城を囲み、逃れた陳安を部将が谷間で斬った。ついで二十八万五千の兵で黄河に臨み、前涼の張茂は恐れて藩を称し、劉曜は張茂を涼王に封じた。洛陽の石生を攻めた劉岳を救いに自ら出たときは、金谷で夜に軍が故なく潰走し、石虎は劉岳らを捕らえて士卒一万六千を生き埋めにした。328年には蒲坂を攻めた石虎を高候で大破し、続いて洛陽の金墉城の石生を水攻めにした。劉曜は若いころから酒に溺れ、石勒との決戦の前にも数斗を飲み、西陽門で軍が崩れると酔ったまま逃げて馬ごと氷の上に落ち、傷を負って捕らえられた。その日を資治通鑑は329年の初めとし、晋書の成帝紀は半月ほど後の条に置く。襄国に幽閉された劉曜は、太子の劉熙に降伏を勧める書を書くよう石勒に命じられたが、社稷を守れとだけ伝えたので、石勒に憎まれてのちに殺された。載記や資治通鑑は殺害の日を記さず、魏書は劉曜が黒兎を得て太和と改元したという載記に無い記事を載せている。劉曜が捕らえられたのち、劉熙らは上邽へ逃れたが、329年に石虎に破られて殺された。
在位中の出来事(19件)
残り9件を表示
前趙・漢趙の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代光文帝308–310年病死
- 第2代劉和310年暗殺
- 第3代昭武帝310–318年不詳
- 第4代隠帝318年暗殺
- 第5代劉曜318–329年処刑