
前趙・漢趙(五胡十六国)第3代分裂期の王朝
昭武帝劉聡
在位 310年〜318年8月31日(7年352日)
昭武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第二 劉聰
- 即位経路
- 晉書 載記第二 劉聰
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の劉和を倒して前趙(漢)の位に即き、洛陽と長安を落として、晋の懐帝と愍帝を相次いで捕らえ、平陽へ移した。
即位まで
劉淵の第四子である。魏書は劉和の第四弟とし、劉和を殺して自立したとだけ記す。310年、劉淵の死後に位を継いだ皇太子の劉和が、劉鋭らに唆されて弟たちを攻めると、劉聡は西明門を攻め落とし、劉和は光極西室で斬られた。群臣に勧められると、劉聡はまず弟の劉乂に位を譲ろうとし、劉乂と公卿が泣いて固く請うたので、しばらくして受けた。即位して大赦し、光興と改元して、劉乂を皇太弟とした。
治世と最期
311年、呼延晏・王弥が洛陽に入り、劉曜が王公以下三万余人を殺して、晋の懐帝と伝国の六璽を平陽へ移した。宴で懐帝に酒を注いで回らせると、晋の旧臣が声をあげて泣き、劉琨に呼応しようとしていると告げる者もあったため、劉聡は懐帝を毒で殺し、旧臣たちを誅した。晋書の孝懐帝紀は平陽で弑されたと書くだけで毒殺とは書かず、資治通鑑はその日を晋書の翌月に置く。316年、劉曜が長安を落とすと、晋の愍帝は羊を牽き、棺を車に載せ、璧を口にくわえて降り、劉聡は平陽で愍帝を懐安侯とした。晋書の孝愍帝紀によれば、劉聡は猟で愍帝に先導させ、宴で酒を注がせたのち、愍帝は平陽で殺された。載記は子の劉粲が愍帝を除くよう進め、劉聡がそれに同意したと書き、魏書の序紀は愍帝を殺したのは劉曜だとする。劉粲は皇太弟の劉乂に謀反の罪を着せて廃させ、靳準に殺させたのち、自ら皇太子に立てられた。晩年は病に伏し、死んだ子の劉約の姿を見て、迎えに来たのだと劉粲に語った。318年に死んだが、載記には病名も他殺の記述も無く、このサイトの死因が不詳となっているのはそのためである。
在位中の出来事(20件)
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前趙・漢趙の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代光文帝308–310年病死
- 第2代劉和310年暗殺
- 第3代昭武帝310–318年不詳
- 第4代隠帝318年暗殺
- 第5代劉曜318–329年処刑