本文へスキップ
武帝の肖像

成漢(せいかん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

武帝(ぶてい)李雄(りゆう)

在位 306年〜334年8月11日(28年215日)

姓李(り)諱雄(ゆう)字仲俊(ちゅうしゅん)廟号太宗(たいそう)

武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 306年〜334年8月11日
在位 28年215日長さは365名中27位
没年
334年61歳(数え年)267名中長寿順33位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 李班成漢李班は武帝の甥

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第二十一 李雄
即位経路
晉書 載記第二十一 李雄

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李雄(りゆう)は蜀(しょく)で挙兵した李特(りとく)の子で、成都(せいと)を攻め取って成都王(せいとおう)を称し、のちに皇帝の位に即いた。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は、天下が大いに乱れるなかで蜀(しょく)だけが無事だったと記す。

即位まで

晋書(しんじょ)の載記(さいき)は李特(りとく)の第三子とし、華陽国志(かようこくし)は李蕩(りとう)を長子、李雄(りゆう)を末の子とする。李特(りとく)が蜀(しょく)で挙兵すると李雄(りゆう)は前将軍(ぜんしょうぐん)となり、李流(りりゅう)が死ぬと大都督(だいととく)・大将軍(だいしょうぐん)・益州牧(えきしゅうぼく)を称したが、載記(さいき)はこれを自称とし、資治通鑑(しじつがん)は衆に推されたとする。晋(しん)の益州(えきしゅう)刺史(しし)の羅尚が夜に城を捨てて逃れると、李雄(りゆう)は門を開いた羅特に迎えられて成都(せいと)を取った。304年に諸将の固い請いで成都王(せいとおう)を称して建興(けんこう)と建元(けんげん)し、晋(しん)の法を除いて法七章を約した。その後、范(はん)長生(ちょうせい)の勧めで帝位に即いたが、その年を晋書(しんじょ)の恵帝(けいてい)紀(き)は305年、華陽国志(かようこくし)と資治通鑑(しじつがん)は306年とし、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は306年の説を採る。このときの元号も、載記(さいき)は太武(たいぶ)、華陽国志(かようこくし)と資治通鑑(しじつがん)は晏平(あんぺい)とし、考異(こうい)は載記(さいき)の記す元号を伝写の誤りとして退けている。

治世と最期

李雄(りゆう)は人材をよく用いて益州(えきしゅう)を平定し、妻の任氏(じんし)を皇后に立てた。載記(さいき)によれば、蜀(しょく)では人々が帰順して租税も軽かった一方、国に威儀がなく官に禄秩(ろくちつ)が無かったことが失敗の原因とされる。李雄(りゆう)には十余人の子があり、群臣は実子を立てるよう望んだが、李雄(りゆう)は兄の李蕩(りとう)の子の李班(りはん)を太子に立て、李驤(りじょう)は乱はここから始まると泣いた。華陽国志(かようこくし)によれば、任氏(じんし)に子が無かったため李班(りはん)を養子とし、その立太子を華陽国志(かようこくし)は322年、資治通鑑(しじつがん)は324年に置く。載記(さいき)は李雄(りゆう)が頭に瘍を生じて六日で死んだとし、その年を333年とするが、同じ晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)と華陽国志(かようこくし)、資治通鑑(しじつがん)は334年とする。資治通鑑(しじつがん)によれば、李雄(りゆう)の死後は太子の李班(りはん)が即位し、李寿(りじゅ)が遺詔(いしょう)を受けて輔政(ほせい)した。

在位中の出来事(11件)

親征309年向奮(羅尚配下の将軍)
被反乱309年〜310年李离配下(羅羕・張金苟)の反乱・梓潼失陥
被反乱310年李国配下(文碩)の反乱・巴西失陥
改元日付不詳元号を「太武」とする
改元日付不詳元号を「玉衡」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
立后日付不詳
被反乱日付不詳氐王楊難敵の離反
残り1件を表示
被反乱日付不詳氐苻成・隗文の反乱

成漢の歴代皇帝

5名の一覧

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。