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成漢(せいかん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第6代分裂期の王朝

昭文帝(しょうぶんてい)李寿(りじゅ)

在位 338年〜343年(5年213日)

姓李(り)諱寿(じゅ)字武考(ぶこう)廟号中宗(ちゅうそう)

昭文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 338年〜343年
在位 5年213日長さは365名中176位
没年
343年9月44歳(数え年)267名中長寿順110位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪
先代
次代
  • 後主成漢後主は昭文帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第二十一 李壽
即位経路
晉書 載記第二十一 李壽

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李寿(りじゅ)は成漢(せいかん)の李骧(りじょう)の子で、李雄(りゆう)の死後に輔政(ほせい)し、338年に成都(せいと)を襲って李期(りき)を廃し、自ら帝位に即いた。のちには後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)の統治を慕い、人を殺して威を立て、宮室を大いに造営した。

即位まで

李寿(りじゅ)は李雄(りゆう)に才を認められて将となり、李雄(りゆう)の死後は遺命を受けて輔政(ほせい)した。李期(りき)が即位すると漢王に改封(かいほう)され、梁州(りょうしゅう)刺史(しし)を領した。李寿(りじゅ)は李(り)越・景騫(けん)らに憚(はばか)られて身の安全(あんぜん)を憂い、龔(きょう)壮の進言を容れて成都(せいと)を襲った。晋書(しんじょ)の李期(りき)の載記(さいき)によれば、きっかけは李期(りき)が李寿(りじゅ)の養弟の李(り)攸(ゆう)を毒殺したことで、李寿(りじゅ)は歩騎(ほき)一万で涪(ふう)から成都(せいと)に入り、李(り)越らを誅(ちゅう)させたうえ、李雄(りゆう)の妻の任氏(じんし)の令を偽って李期(りき)を邛都県公(きょうとけんこう)に廃した。資治通鑑(しじつがん)は、李寿(りじゅ)の子の李勢(りせい)が城門を開いて軍を迎え入れたと記すが、載記(さいき)の李寿(りじゅ)の条にはこの記事が無い。群臣の中には晋(しん)への称藩(しょうはん)を勧める者もいたが、李寿(りじゅ)は数年の天子にはなれるという占いを聞いて自立を選び、即位して漢興(かんこう)と改元(かいげん)した。李期(りき)の最期を載記(さいき)は前年の自縊(じい)とし、資治通鑑(しじつがん)は338年に縊(くび)れて死んだとするが、晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)は李寿(りじゅ)による弑殺(しいさつ)、華陽国志(かようこくし)は廃位の翌月の殺害として、書ごとに異なる。

治世と最期

即位すると父の李骧(りじょう)を漢の始祖廟(しそびょう)とし、李特(りとく)・李雄(りゆう)を大成廟(たいせいびょう)として、自らは李期(りき)・李(り)越とは別族だと布告した。父を献帝(けんてい)と追尊(ついそん)し、妻の閻氏(えんし)を皇后、子の李勢(りせい)を太子に立てた。石虎(せきこ)が連合して東晋(とうしん)を攻めようと持ちかけると、李寿(りじゅ)は喜んで出兵の準備をしたが、龔(きょう)壮や群臣が泣いて諫(いさ)めたので取りやめた。鄴(ぎょう)の繁栄を聞いて石虎(せきこ)の刑罰による統治を慕い、小さな過ちでも人を殺し、直諫(ちょっかん)した左僕射(さぼくや)の蔡(さい)興や右僕射(うぼくや)の李(り)嶷(ぎょく)を殺した。帝号(ていごう)をやめて王を称するよう上書した李(り)演も、李寿(りじゅ)の怒りに触れて殺された。載記(さいき)によれば、李寿(りじゅ)は病が篤くなって李期(りき)と蔡(さい)興の祟(たた)りを見て死に、昭文帝(しょうぶんてい)と諡(おくりな)された。その没年を晋書(しんじょ)の康帝(こうてい)紀(き)や華陽国志(かようこくし)、資治通鑑(しじつがん)は343年とするが、載記(さいき)の記す年は前年とも読める。

在位中の出来事(4件)

改元338年5月元号を「漢興」とする
大赦338年5月
立后338年5月
親征338年5月李期(成漢の主)とその一派(建寧王李越・尚書令景騫・田褒・姚華ら)

成漢の歴代皇帝

5名の一覧

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