成漢(五胡十六国)第6代分裂期の王朝
昭文帝李寿
在位 338年〜343年(5年213日)
昭文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第二十一 李壽
- 即位経路
- 晉書 載記第二十一 李壽
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李寿は成漢の李骧の子で、李雄の死後に輔政し、338年に成都を襲って李期を廃し、自ら帝位に即いた。のちには後趙の石虎の統治を慕い、人を殺して威を立て、宮室を大いに造営した。
即位まで
李寿は李雄に才を認められて将となり、李雄の死後は遺命を受けて輔政した。李期が即位すると漢王に改封され、梁州刺史を領した。李寿は李越・景騫らに憚られて身の安全を憂い、龔壮の進言を容れて成都を襲った。晋書の李期の載記によれば、きっかけは李期が李寿の養弟の李攸を毒殺したことで、李寿は歩騎一万で涪から成都に入り、李越らを誅させたうえ、李雄の妻の任氏の令を偽って李期を邛都県公に廃した。資治通鑑は、李寿の子の李勢が城門を開いて軍を迎え入れたと記すが、載記の李寿の条にはこの記事が無い。群臣の中には晋への称藩を勧める者もいたが、李寿は数年の天子にはなれるという占いを聞いて自立を選び、即位して漢興と改元した。李期の最期を載記は前年の自縊とし、資治通鑑は338年に縊れて死んだとするが、晋書の成帝紀は李寿による弑殺、華陽国志は廃位の翌月の殺害として、書ごとに異なる。
治世と最期
即位すると父の李骧を漢の始祖廟とし、李特・李雄を大成廟として、自らは李期・李越とは別族だと布告した。父を献帝と追尊し、妻の閻氏を皇后、子の李勢を太子に立てた。石虎が連合して東晋を攻めようと持ちかけると、李寿は喜んで出兵の準備をしたが、龔壮や群臣が泣いて諫めたので取りやめた。鄴の繁栄を聞いて石虎の刑罰による統治を慕い、小さな過ちでも人を殺し、直諫した左僕射の蔡興や右僕射の李嶷を殺した。帝号をやめて王を称するよう上書した李演も、李寿の怒りに触れて殺された。載記によれば、李寿は病が篤くなって李期と蔡興の祟りを見て死に、昭文帝と諡された。その没年を晋書の康帝紀や華陽国志、資治通鑑は343年とするが、載記の記す年は前年とも読める。
在位中の出来事(4件)
成漢の歴代皇帝
5名の一覧- 第3代武帝306–334年病死
- 第4代李班334年暗殺
- 第5代李期334–338年自尽
- 第6代昭文帝338–343年病死
- 第7代後主343–347年病死