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成漢(せいかん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第4代分裂期の王朝

李班(りはん)

在位 334年8月11日〜334年(108日)

姓李(り)諱班(はん)字世文(せいぶん)諡号哀皇帝(あいこうてい)

李班の人物データ

生年
不詳
在位
  • 334年8月11日〜334年
在位 108日長さは365名中335位
没年
334年47歳(数え年)267名中長寿順92位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 武帝成漢李班は武帝の甥
次代
  • 李期成漢李期は李班の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第二十一 李班
即位経路
晉書 載記第二十一 李班

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李班(りはん)は成漢(せいかん)の李雄(りゆう)の兄の李蕩(りとう)の子で、李雄(りゆう)の実子を差し置いて太子に立てられ、李雄(りゆう)の死後に位を嗣いだ。即位からまもなく、実子でないことに不平を抱いた李雄(りゆう)の子の李(り)越らに殯宮(ひんきゅう)で殺された。

即位まで

字は世文(せいぶん)で、華陽国志(かようこくし)によれば李蕩(りとう)の第四子として幼くして李雄(りゆう)に養われた。はじめ平南将軍(へいなんしょうぐん)に任じられ、のちに太子に立てられたが、その年齢を華陽国志(かようこくし)は二十六歳、十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)の輯本(しゅうほん)は十六歳とする。李班(りはん)は何点や李(り)釗(しょう)を師とし、貴人が荒田を広く占めることを批判して田の均分を説き、李雄(りゆう)に納れられた。華陽国志(かようこくし)は、李班(りはん)の性格が軽躁(けいそう)で田猟(でんりょう)を好んだことを欠点として挙げている。李雄(りゆう)が病んで古傷が膿(う)むと、李雄(りゆう)の子の李(り)越らは嫌って遠ざかったが、李班(りはん)は膿(うみ)を吸い薬を嘗(な)めて看病した。334年に李雄(りゆう)が死ぬと李班(りはん)が位を嗣ぎ、李寿(りじゅ)を録尚書事(ろくしょうしょじ)として政事を委ね、自らは喪礼に専念した。

治世と最期

江陽(こうよう)に鎮していた李(り)越は、李班(りはん)が李雄(りゆう)の実子でないことに不平を抱き、喪に駆けつけて弟の李期(りき)とひそかに李班(りはん)を除こうと図った。李(り)玝(ご)は李(り)越を江陽(こうよう)に帰し李期(りき)を葭萌(かぼう)に出すよう勧めたが、李班(りはん)は李雄(りゆう)がまだ葬られていないことを理由に遣らなかった。太史令(たいしれい)の韓豹(ひょう)が宮中に陰謀の兵気があると奏しても、李班(りはん)は悟らなかった。同じ年、李班(りはん)が夜に哭(こく)していたところを李(り)越が殯宮(ひんきゅう)で殺し、李雄(りゆう)の子の李期(りき)が位を嗣いだ。資治通鑑(しじつがん)によれば、李(り)越は李班(りはん)の兄の李(り)都も殺し、任太后(たいこう)の令を偽って李班(りはん)に罪を着せて廃した。殺した者を晋書(しんじょ)の載記(さいき)と資治通鑑(しじつがん)は李(り)越とし、十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)の輯本(しゅうほん)は李(り)越と李期(りき)の二人、魏書(ぎしょ)は李期(りき)とし、華陽国志(かようこくし)は李班(りはん)の条で二人、李期(りき)の条で李(り)越とする。李期(りき)は李班(りはん)に戻太子(れいたいし)と諡(おくりな)したが、華陽国志(かようこくし)によれば、のちに李寿(りじゅ)が哀皇帝(あいこうてい)と追諡(ついし)した。

在位中の出来事(1件)

被反乱334年11月李越・李期のクーデター(李班弑逆)

成漢の歴代皇帝

5名の一覧

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