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成漢(せいかん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第7代分裂期の王朝

後主(こうしゅ)李勢(りせい)

在位 343年〜347年4月13日(3年211日)

姓李(り)諱勢(せい)字子仁(しじん)

後主の人物データ

生年
不詳
在位
  • 343年〜347年4月13日
在位 3年211日長さは365名中211位
没年
361年
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第二十一 李勢
即位経路
晉書 載記第二十一 李勢

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李勢(りせい)は成漢(せいかん)の李寿(りじゅ)の長子で、父の死後に即位し、347年に東晋(とうしん)の桓温(かんおん)に成都(せいと)を攻められて降った最後の君主である。降伏後は建康(けんこう)に移されて帰義侯(きぎこう)に封じられ、その地で死んだ。

即位まで

李寿(りじゅ)の妻の閻氏(えんし)に子が無かったため、李骧(りじょう)が李(り)鳳(ほう)を殺してその娘を李寿(りじゅ)に娶(めと)らせ、生まれたのが李勢(りせい)である。李期(りき)は李勢(りせい)の容貌を愛して翊軍将軍(よくぐんしょうぐん)・漢王世子とした。343年に李寿(りじゅ)が死ぬと位を継いで大赦し、太和(たいわ)と改元(かいげん)して嫡母(ちゃくぼ)の閻氏(えんし)を太后、妻の李氏(りし)を皇后とした。資治通鑑(しじつがん)は改元(かいげん)と立后を翌344年に置いている。

治世と最期

弟の李広(りこう)が太弟(たいてい)に立てるよう求めると李勢(りせい)は許さず、許すよう勧めた馬当と解思明(しめい)を李広(りこう)との通謀を疑って三族(さんぞく)ごと斬り、李広(りこう)を自殺に追い込んだ。魏書(ぎしょ)はこの事件を、李広(りこう)の方が李勢(りせい)を襲おうとしたと書いている。346年には李広(りこう)を攻めた李(り)奕(えき)が晋寿(しんじゅ)で挙兵して数万に膨れたが、李勢(りせい)は城に登って防ぎ、単騎で門に突入した李(り)奕(えき)は射殺された。その後、獠(ろう)が山から出て民を苦しめる一方、載記(さいき)によれば李勢(りせい)は人を殺してその妻を奪うなど国事を顧みず、大臣を誅(ちゅう)して刑獄を濫用した。347年、桓温(かんおん)が水軍を率いて攻め寄せ、晋書(しんじょ)の桓温(かんおん)伝と資治通鑑(しじつがん)によれば李勢(りせい)は全軍で成都(せいと)の笮橋(さくきょう)に出て戦ったが、晋(しん)の鼓吏(こり)が誤って鳴らした進軍の鼓を機に大敗した。李勢(りせい)は夜に東門から出て晋寿(しんじゅ)へ逃れ、桓温(かんおん)に降文(こうぶん)を送ったが、降伏を勧めた人物を載記(さいき)は王嘏(か)・常璩(きょ)、桓温(かんおん)伝は部将の鄧(とう)嵩(すう)・昝(さん)堅とする。李勢(りせい)は棺を車に載せ自らを縛って軍門(ぐんもん)に出頭し、桓温(かんおん)は縛めを解いて棺を焼き、李勢(りせい)ら親族十余人を建康(けんこう)へ移した。361年に建康(けんこう)で死んだが、載記(さいき)と資治通鑑(しじつがん)は死んだことを記すのみで、華陽国志(かようこくし)や晋書(しんじょ)の帝紀(ていき)、魏書(ぎしょ)には死の記事そのものが無い。

在位中の出来事(7件)

大赦343年
被反乱346年李弈の反乱
親征347年2月〜347年4月桓温率いる東晋の成漢征討軍
改元日付不詳元号を「太和」とする
改元日付不詳元号を「嘉寧」とする
大赦日付不詳
立后日付不詳

成漢の歴代皇帝

5名の一覧

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