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明帝の肖像

後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第1代分裂期の王朝

明帝(めいてい)石勒(せきろく)

在位 330年〜333年8月17日(3年3日)

姓石(せき)諱勒(ろく)字世龍(せいりゅう)幼名匐勒(ふくろく)廟号高祖(こうそ)

明帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 330年〜333年8月17日
在位 3年3日長さは365名中222位タイ
没年
333年60歳(数え年)267名中長寿順39位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 石弘後趙石弘は明帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第五 石勒下
即位経路
晉書 載記第四 石勒上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石勒(せきろく)は羯(けつ)の出身で、奴隷として売られた身から身を起こし、前趙(ぜんちょう)の劉曜(りゅうよう)と決裂して後趙(こうちょう)を建てた。329年に洛陽(らくよう)で劉曜(りゅうよう)を捕らえ、翌330年に趙天王(ちょうてんのう)を称し、同じ年のうちに皇帝の位に即いた。

即位まで

晋書(しんじょ)の載記(さいき)は石勒(せきろく)を上党(じょうとう)武郷(ぶきょう)の羯人(けつじん)とし、先祖を匈奴(きょうど)の別部(べつぶ)の羌渠(きょうきょ)の後裔(こうえい)と記す。并州(へいしゅう)の飢饉(ききん)のとき、東嬴公(とうえいこう)司馬(しば)騰が胡人(こじん)を捕らえて売らせ、二十余歳の石勒(せきろく)も茌平(しへい)の師歓に売られて奴となった。師歓は石勒(せきろく)の容貌を奇として奴の身分から解放し、石勒(せきろく)という姓名はのちに汲(きゅう)桑とともに公師(こうし)藩の挙兵に加わったとき汲(きゅう)桑が付けたものだという。劉淵(りゅうえん)が帝号(ていごう)を称すると平東大将軍(へいとうだいしょうぐん)を授けられ、のちには幽州(ゆうしゅう)を急襲して王浚(しゅん)を捕らえた。劉曜(りゅうよう)が石勒(せきろく)への太宰(たいさい)などの授与を取り消すと、石勒(せきろく)は趙王(ちょうおう)も趙帝(ちょうてい)も自分で取ると令を下して劉曜(りゅうよう)と決裂し、319年に趙王(ちょうおう)を称した。329年、自ら洛陽(らくよう)へ出陣して劉曜(りゅうよう)の軍を大破し、石堪が劉曜(りゅうよう)を捕らえた。330年、石虎(せきこ)らが皇帝の璽綬(じじゅ)を奉ると石勒(せきろく)は辞退し、群臣の固請(こせい)を受けてまず趙天王(ちょうてんのう)を称した。

治世と最期

同じ年、群臣の再度の請いで皇帝の位に即き、建平(けんぺい)と改元(かいげん)して妻の劉氏(りゅうし)を皇后に立てたが、その月を晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)はひと月違えて記す。程遐(か)は石虎(せきこ)が残忍で少主(しょうしゅ)を補佐できないとして早く除くよう進言し、徐光も石虎(せきこ)が死後の禍いになると説いたが、石勒(せきろく)は従わなかった。石勒(せきろく)が重病で禁中(きんちゅう)に入ると、石虎(せきこ)は命令を偽って太子の石弘(せきこう)や群臣を石勒(せきろく)から遠ざけた。石勒(せきろく)は遺令(いれい)で、石弘(せきこう)と石斌(ひん)に助け合うよう命じ、石虎(せきこ)には周公(しゅうこう)や霍光(かくこう)の例をよく考えよと戒めた。載記(さいき)は石勒(せきろく)の死を332年とし、夜に山谷へ埋めて所在を知らせなかったと記すが、晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は333年とする。資治通鑑(しじつがん)によれば、石勒(せきろく)の死後、石虎(せきこ)はただちに石弘(せきこう)を擁して程遐(か)と徐光を捕らえた。

在位中の出来事(4件)

改元330年元号を「建平」とする
大赦330年
立后330年
被反乱330年秦州休屠部王羌の反乱

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

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