
後趙(五胡十六国)第1代分裂期の王朝
明帝石勒
在位 330年〜333年8月17日(3年3日)
明帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第五 石勒下
- 即位経路
- 晉書 載記第四 石勒上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石勒は羯の出身で、奴隷として売られた身から身を起こし、前趙の劉曜と決裂して後趙を建てた。329年に洛陽で劉曜を捕らえ、翌330年に趙天王を称し、同じ年のうちに皇帝の位に即いた。
即位まで
晋書の載記は石勒を上党武郷の羯人とし、先祖を匈奴の別部の羌渠の後裔と記す。并州の飢饉のとき、東嬴公司馬騰が胡人を捕らえて売らせ、二十余歳の石勒も茌平の師歓に売られて奴となった。師歓は石勒の容貌を奇として奴の身分から解放し、石勒という姓名はのちに汲桑とともに公師藩の挙兵に加わったとき汲桑が付けたものだという。劉淵が帝号を称すると平東大将軍を授けられ、のちには幽州を急襲して王浚を捕らえた。劉曜が石勒への太宰などの授与を取り消すと、石勒は趙王も趙帝も自分で取ると令を下して劉曜と決裂し、319年に趙王を称した。329年、自ら洛陽へ出陣して劉曜の軍を大破し、石堪が劉曜を捕らえた。330年、石虎らが皇帝の璽綬を奉ると石勒は辞退し、群臣の固請を受けてまず趙天王を称した。
治世と最期
同じ年、群臣の再度の請いで皇帝の位に即き、建平と改元して妻の劉氏を皇后に立てたが、その月を晋書の成帝紀と資治通鑑はひと月違えて記す。程遐は石虎が残忍で少主を補佐できないとして早く除くよう進言し、徐光も石虎が死後の禍いになると説いたが、石勒は従わなかった。石勒が重病で禁中に入ると、石虎は命令を偽って太子の石弘や群臣を石勒から遠ざけた。石勒は遺令で、石弘と石斌に助け合うよう命じ、石虎には周公や霍光の例をよく考えよと戒めた。載記は石勒の死を332年とし、夜に山谷へ埋めて所在を知らせなかったと記すが、晋書の成帝紀と資治通鑑は333年とする。資治通鑑によれば、石勒の死後、石虎はただちに石弘を擁して程遐と徐光を捕らえた。
在位中の出来事(4件)
後趙の歴代皇帝
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