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後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

武帝(ぶてい)石虎(せきこ)

在位 349年〜349年5月26日(131日)

姓石(せき)諱虎(こ)字季龍(きりゅう)廟号太祖(たいそ)

武帝の人物データ

生年
295年
在位
  • 349年〜349年5月26日
在位 131日55歳で即位(数え年)・長さは365名中332位
没年
349年5月26日55歳(数え年)267名中長寿順56位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪帝号を新たに称した
先代
  • 石弘後趙武帝は石弘の従兄弟
次代
  • 石世後趙石世は武帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第六 石虎下
即位経路
晉書 載記第五 石虎上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石虎(せきこ)は後趙(こうちょう)の石勒(せきろく)の従子で、石勒(せきろく)の死後に子の石弘(せきこう)を廃して居摂趙天王(きょせつちょうてんおう)を称し、のちに皇帝の位に即いた。治世には労役と軍役がやまず、晩年には太子の石宣が弟の石韜(とう)を殺し、石虎(せきこ)が石宣を焼き殺す事件が起きた。

即位まで

石勒(せきろく)の父が幼い石虎(せきこ)を子として育てたため、石勒(せきろく)の弟とも称された。石勒(せきろく)が位に即くと、大単于(ぜんう)の位が自分ではなく石勒(せきろく)の子に与えられ、石虎(せきこ)は子の石邃(すい)に、主上の死後は石勒(せきろく)の血筋を残さないとひそかに語った。石勒(せきろく)の死後、石虎(せきこ)は石弘(せきこう)を擁して程遐(か)と徐光を捕らえ、位を譲ろうとする石弘(せきこう)を退けて即位させてから、二人を誅(ちゅう)した。のちに石弘(せきこう)が璽綬(じじゅ)を携えて禅位(ぜんい)を申し出ると、石虎(せきこ)は石弘(せきこう)を廃して海陽王(かいようおう)とし、皇帝号(こうていごう)を辞して居摂趙天王(きょせつちょうてんおう)を称した。この廃位を載記(さいき)は335年とし、資治通鑑(しじつがん)と晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)はそれより前の、334年末から335年初めにかけての冬に置き、成帝(せいてい)紀(き)は石虎(せきこ)が石弘(せきこう)を弑(しい)したと書く。載記(さいき)の石弘(せきこう)の条によれば、石弘(せきこう)は母の程氏(ていし)らとともに幽閉され、まもなく殺された。

治世と最期

337年、殷周(いんしゅう)の制にならって大趙天王(だいちょうてんのう)を称し、南郊で即位した。載記(さいき)は、労役と軍役がやまず旱魃(かんばつ)と穀価の高騰が重なって民が生きるすべを失い、各所に置いた女官(じょかん)のために民の娘三万余人が徴発されたと記す。太子の石邃(すい)が石宣の殺害を企てるなど無道を重ねると、石虎(せきこ)は石邃(すい)を廃し、その夜に妻と子二十六人とともに殺して、石宣を太子に立てた。348年、石宣は弟の石韜(とう)を憎んで刺客に殺させ、石虎(せきこ)は石宣を拷問のうえ柴(しば)の上で焼き殺し、赦そうとした幼い孫も大臣に奪われて殺された。石虎(せきこ)はこれを機に病を発し、東宮(とうぐう)の衛士(えいし)十余万人を涼州(りょうしゅう)へ流した。349年、病が小康を得ると南郊で皇帝の位に即き、太寧(たいねい)と改元(かいげん)した。涼州(りょうしゅう)へ流された衛士たちは梁(りょう)犢(とく)を立てて反乱し、十万に膨れたが、燕王(えんおう)の石斌(ひん)らに鎮められた。石虎(せきこ)の病が重くなると、皇后の劉氏(りゅうし)と張豺(さい)が詔を偽って石斌(ひん)を殺し、まもなく石虎(せきこ)も死んで、劉氏(りゅうし)の子の石世(せきせい)が位を継いだ。

在位中の出来事(3件)

改元349年2月元号を「太寧」とする
大赦349年2月
被反乱349年2月〜349年3月梁犊(高力)の乱

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

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