後趙(五胡十六国)第3代分裂期の王朝
武帝石虎
在位 349年〜349年5月26日(131日)
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第六 石虎下
- 即位経路
- 晉書 載記第五 石虎上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石虎は後趙の石勒の従子で、石勒の死後に子の石弘を廃して居摂趙天王を称し、のちに皇帝の位に即いた。治世には労役と軍役がやまず、晩年には太子の石宣が弟の石韜を殺し、石虎が石宣を焼き殺す事件が起きた。
即位まで
石勒の父が幼い石虎を子として育てたため、石勒の弟とも称された。石勒が位に即くと、大単于の位が自分ではなく石勒の子に与えられ、石虎は子の石邃に、主上の死後は石勒の血筋を残さないとひそかに語った。石勒の死後、石虎は石弘を擁して程遐と徐光を捕らえ、位を譲ろうとする石弘を退けて即位させてから、二人を誅した。のちに石弘が璽綬を携えて禅位を申し出ると、石虎は石弘を廃して海陽王とし、皇帝号を辞して居摂趙天王を称した。この廃位を載記は335年とし、資治通鑑と晋書の成帝紀はそれより前の、334年末から335年初めにかけての冬に置き、成帝紀は石虎が石弘を弑したと書く。載記の石弘の条によれば、石弘は母の程氏らとともに幽閉され、まもなく殺された。
治世と最期
337年、殷周の制にならって大趙天王を称し、南郊で即位した。載記は、労役と軍役がやまず旱魃と穀価の高騰が重なって民が生きるすべを失い、各所に置いた女官のために民の娘三万余人が徴発されたと記す。太子の石邃が石宣の殺害を企てるなど無道を重ねると、石虎は石邃を廃し、その夜に妻と子二十六人とともに殺して、石宣を太子に立てた。348年、石宣は弟の石韜を憎んで刺客に殺させ、石虎は石宣を拷問のうえ柴の上で焼き殺し、赦そうとした幼い孫も大臣に奪われて殺された。石虎はこれを機に病を発し、東宮の衛士十余万人を涼州へ流した。349年、病が小康を得ると南郊で皇帝の位に即き、太寧と改元した。涼州へ流された衛士たちは梁犢を立てて反乱し、十万に膨れたが、燕王の石斌らに鎮められた。石虎の病が重くなると、皇后の劉氏と張豺が詔を偽って石斌を殺し、まもなく石虎も死んで、劉氏の子の石世が位を継いだ。
在位中の出来事(3件)
後趙の歴代皇帝
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