本文へスキップ

後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第5代分裂期の王朝

石遵(せきじゅん)

在位 349年〜349年(184日)

姓石(せき)諱遵(じゅん)

石遵の人物データ

生年
不詳
在位
  • 349年〜349年
在位 184日長さは365名中318位タイ
没年
349年12月
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪
先代
  • 石世後趙石遵は石世の兄
次代
  • 石鑑後趙石鑑は石遵の兄

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第六 石遵
即位経路
晉書 載記第六 石遵

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石遵(せきじゅん)は後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)の子で、石虎(せきこ)の死後に弟の石世(せきせい)を廃して即位したが、その年のうちに石閔(びん)らに殺された。即位の前に石閔(びん)へ後継ぎにすると約束しながら石衍(えん)を太子とし、石閔(びん)の兵権を削ろうとして、石閔(びん)の政変を招いた。

即位まで

石虎(せきこ)の病が重くなると、石遵(せきじゅん)は大将軍(だいしょうぐん)として関右(かんゆう)へ出されることになり、禁兵(きんぺい)三万を付けられて泣いて鄴(ぎょう)を去った。石虎(せきこ)の死を河内(かだい)で聞いた石遵(せきじゅん)のもとに、姚弋仲(ようよくちゅう)・苻洪(ふこう)・石閔(びん)らが来て張豺(さい)の罪を鳴らし、鄴(ぎょう)を討つよう説いた。石遵(せきじゅん)は兵九万を率いて進み、鄴(ぎょう)の古参の羯(けつ)の兵士たちは天子の子が喪に駆けつけたとして城を越えて迎えに出た。出迎えた張豺(さい)を捕らえて斬り、その三族(さんぞく)を滅ぼした。そのうえで劉太后(りゅうたいこう)の令と偽って、嗣子は幼くて任に堪えないので石遵(せきじゅん)に位を継がせるとし、辞退してみせたのちに即位して大赦した。

治世と最期

母の鄭氏(ていし)を皇太后、妻の張氏(ちょうし)を皇后とし、石斌(ひん)の子の石衍(えん)を皇太子に立て、石閔(びん)に輔政(ほせい)させた。沛王(はいおう)の石沖が石世(せきせい)の殺害を罪として挙兵すると、石閔(びん)と李(り)農に討たせ、石沖に死を賜って士卒三万余人を坑殺(こうさつ)した。石遵(せきじゅん)は挙兵のとき、事が成れば後継ぎにすると石閔(びん)に約していたが、実際には石衍(えん)を太子に立て、石閔(びん)は大いに失望した。石遵(せきじゅん)は石閔(びん)の兵権を少しずつ奪い、石鑑(せきかん)らを鄭(てい)太后(たいこう)の前に召して石閔(びん)の誅殺(ちゅうさつ)を議したが、鄭(てい)太后(たいこう)は石閔(びん)がいなければ今日は無かったと止めた。議の場を出た石鑑(せきかん)はこれを石閔(びん)に知らせ、石閔(びん)は李(り)農らと謀って石遵(せきじゅん)を捕らえさせた。捕らえられた石遵(せきじゅん)は、石鑑(せきかん)を立てても幾時もつものかと言って殺され、鄭(てい)太后(たいこう)や太子の石衍(えん)も誅(ちゅう)された。殺害を載記(さいき)と資治通鑑(しじつがん)は石閔(びん)の謀によるとし、晋書(しんじょ)の天文志(てんもんし)も冉(ぜん)閔(びん)(石閔(びん))とするが、晋書(しんじょ)の穆帝(ぼくてい)紀(き)と魏書(ぎしょ)は石鑑(せきかん)が石遵(せきじゅん)を殺したとする。

在位中の出来事(5件)

被反乱349年石冲の挙兵
被反乱349年石苞の関中挙兵未遂
被反乱349年12月石閔・石鑑らによる石遵弑殺
大赦日付不詳
立后日付不詳

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

即位経路が「簒奪」の28名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。