後趙(五胡十六国)第5代分裂期の王朝
石遵
在位 349年〜349年(184日)
石遵の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第六 石遵
- 即位経路
- 晉書 載記第六 石遵
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石遵は後趙の石虎の子で、石虎の死後に弟の石世を廃して即位したが、その年のうちに石閔らに殺された。即位の前に石閔へ後継ぎにすると約束しながら石衍を太子とし、石閔の兵権を削ろうとして、石閔の政変を招いた。
即位まで
石虎の病が重くなると、石遵は大将軍として関右へ出されることになり、禁兵三万を付けられて泣いて鄴を去った。石虎の死を河内で聞いた石遵のもとに、姚弋仲・苻洪・石閔らが来て張豺の罪を鳴らし、鄴を討つよう説いた。石遵は兵九万を率いて進み、鄴の古参の羯の兵士たちは天子の子が喪に駆けつけたとして城を越えて迎えに出た。出迎えた張豺を捕らえて斬り、その三族を滅ぼした。そのうえで劉太后の令と偽って、嗣子は幼くて任に堪えないので石遵に位を継がせるとし、辞退してみせたのちに即位して大赦した。
治世と最期
母の鄭氏を皇太后、妻の張氏を皇后とし、石斌の子の石衍を皇太子に立て、石閔に輔政させた。沛王の石沖が石世の殺害を罪として挙兵すると、石閔と李農に討たせ、石沖に死を賜って士卒三万余人を坑殺した。石遵は挙兵のとき、事が成れば後継ぎにすると石閔に約していたが、実際には石衍を太子に立て、石閔は大いに失望した。石遵は石閔の兵権を少しずつ奪い、石鑑らを鄭太后の前に召して石閔の誅殺を議したが、鄭太后は石閔がいなければ今日は無かったと止めた。議の場を出た石鑑はこれを石閔に知らせ、石閔は李農らと謀って石遵を捕らえさせた。捕らえられた石遵は、石鑑を立てても幾時もつものかと言って殺され、鄭太后や太子の石衍も誅された。殺害を載記と資治通鑑は石閔の謀によるとし、晋書の天文志も冉閔(石閔)とするが、晋書の穆帝紀と魏書は石鑑が石遵を殺したとする。