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後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第7代分裂期の王朝

石祗(せきし)

在位 350年〜351年(1年31日)

姓石(せき)諱祗(し)

石祗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 350年〜351年
在位 1年31日長さは365名中286位
没年
351年
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第七 石祗
即位経路
晉書 載記第七 石祗

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石祗(せきし)は後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)の子で、石鑑(せきかん)が殺されると襄国(じょうこく)で帝を称し、冉(ぜん)閔(びん)と争った後趙(こうちょう)最後の君主である。一度は援軍と結んで冉(ぜん)閔(びん)を大破したが、部将の劉(りゅう)顕に殺された。

即位まで

資治通鑑(しじつがん)によれば、石祗(せきし)は新興王(しんこうおう)として襄国(じょうこく)に鎮しており、晋書(しんじょ)の穆帝(ぼくてい)紀(き)は石鑑(せきかん)の弟とする。石鑑(せきかん)の治世のうちに、石祗(せきし)は姚弋仲(ようよくちゅう)・苻洪(ふこう)らと結んで石閔(びん)と李(り)農の誅殺(ちゅうさつ)を呼びかけた。350年に石鑑(せきかん)の死を聞くと襄国(じょうこく)で帝号(ていごう)を称し、各地で兵を持つ六夷(りくい)の者たちはみなこれに応じた。資治通鑑(しじつがん)はこのとき永守(えいしゅ)と改元(かいげん)したとするが、晋書(しんじょ)には元号の記述が無い。

治世と最期

同じ年、石琨(こん)に十万の兵を付けて鄴(ぎょう)を討たせたが、石琨(こん)は邯鄲(かんたん)で冉(ぜん)閔(びん)に大敗した。冉(ぜん)閔(びん)は十万の兵で襄国(じょうこく)を囲み、土山(どざん)や地道を築いて百余日にわたって攻めた。351年、石祗(せきし)は恐れて皇帝の号を去って趙王(ちょうおう)と称し、慕容儁(ぼようしゅん)や姚弋仲(ようよくちゅう)に援軍を乞うた。姚(よう)襄(じょう)らの援軍が三方から攻めかかると、石祗(せきし)も城から出て背後を衝き、冉(ぜん)閔(びん)の軍は大敗して冉(ぜん)閔(びん)は十余騎で鄴(ぎょう)へ逃れた。続いて劉(りゅう)顕に七万の兵で鄴(ぎょう)を攻めさせたが、劉(りゅう)顕は冉(ぜん)閔(びん)に大敗した。恐れた劉(りゅう)顕はひそかに冉(ぜん)閔(びん)に降り、石祗(せきし)を殺すことを手柄にしたいと申し出て、石祗(せきし)と太宰(たいさい)らを殺し、その首を鄴(ぎょう)へ送った。冉(ぜん)閔(びん)は石祗(せきし)の首を大通りで焼かせた。晋書(しんじょ)の慕容儁(ぼようしゅん)載記(さいき)だけは、石祗(せきし)を殺したのを冉(ぜん)閔(びん)とする。

在位中の出来事(2件)

親征350年12月〜351年4月冉閔(冉魏)
被反乱351年5月劉顕の叛乱・弑逆

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

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