前燕(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
景昭帝慕容儁
在位 352年〜360年2月23日(7年101日)
姓慕容諱儁字宣英幼名賀頼跋廟号烈祖
景昭帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第十 慕容儁
- 即位経路
- 晉書 載記第十 慕容儁
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
燕王から皇帝を称して前燕を帝国とし、冉閔を滅ぼして鄴に都を移した皇帝である。
即位まで
慕容皝の第二子で、字は宣英という。349年、父の死後に燕王の位に就き、春秋の列国にならって元年と称した。350年に南へ兵を出し、後趙の薊を落としてそこを都とした。352年、慕容恪が冉閔の軍を破って冉閔を捕らえて送り、冉閔は龍城で斬られた。晋書の載記によれば、伝国璽は実は東晋へ送られていたが、慕容儁は冉閔の妻が得て献じたと偽り、皇帝の位に即いて元璽と建元した。晋書の載記と穆帝紀は即位を352年とし、資治通鑑の日付は西暦では353年の初めにあたる。即位とともに妻の可足渾氏を皇后に、慕容曄を皇太子に立てた。資治通鑑は、立后を353年に置く。
治世と最期
東晋に従った段龕が帝位を認めなかったので、慕容恪を送って広固を落とした。太子の慕容曄が死ぬと、357年に次の子を皇太子に立て、大赦して光寿と改元した。薊から鄴へ移って宮殿を修め、銅雀台を建て直した。資治通鑑は、薊を発ったのを357年の末、鄴の宮に入ったのを358年の初めとする。前秦の太守や刺史が郡や民戸を率いて降り、東晋の諸葛攸が攻めてくると、東阿でこれを破った。病に臥すと、太子が幼いので国を弟の慕容恪に譲りたいと告げたが、慕容恪は辞退して補佐を約した。360年に死に、景昭皇帝と諡された。死んだ日を晋書の穆帝紀と資治通鑑は8日違えて書く。
在位中の出来事(9件)
改元352年元号を「元璽」とする
大赦352年
立后352年
被反乱352年〜353年常山の李犢の反乱
改元357年元号を「光寿」とする
大赦357年
被反乱357年〜358年河間の李黒の反乱
大赦358年
遷都358年薊城 → 鄴城
前燕の歴代皇帝
2名の一覧- 第2代景昭帝352–360年病死
- 第3代幽帝360–370年処刑