本文へスキップ

前燕(ぜんえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

景昭帝(けいしょうてい)慕容儁(ぼようしゅん)

在位 352年〜360年2月23日(7年101日)

姓慕容(ぼよう)諱儁(しゅん)字宣英(せんえい)幼名賀頼跋(がらいばつ)廟号烈祖(れつそ)

景昭帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 352年〜360年2月23日
在位 7年101日長さは365名中153位
没年
360年42歳(数え年)267名中長寿順122位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲帝号を新たに称した
先代
  • 慕容皝景昭帝は慕容皝の子
次代
  • 幽帝前燕幽帝は景昭帝の子
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第十 慕容儁
即位経路
晉書 載記第十 慕容儁

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

燕王(えんおう)から皇帝を称して前燕(ぜんえん)を帝国とし、冉(ぜん)閔(びん)を滅ぼして鄴(ぎょう)に都を移した皇帝である。

即位まで

慕容皝(ぼようこう)の第二子で、字は宣英(せんえい)という。349年、父の死後に燕王(えんおう)の位に就き、春秋の列国にならって元年と称した。350年に南へ兵を出し、後趙(こうちょう)の薊(けい)を落としてそこを都とした。352年、慕容(ぼよう)恪(かく)が冉(ぜん)閔(びん)の軍を破って冉(ぜん)閔(びん)を捕らえて送り、冉(ぜん)閔(びん)は龍城(りゅうじょう)で斬られた。晋書(しんじょ)の載記(さいき)によれば、伝国璽(でんこくじ)は実は東晋(とうしん)へ送られていたが、慕容儁(ぼようしゅん)は冉(ぜん)閔(びん)の妻が得て献じたと偽り、皇帝の位に即いて元璽(げんじ)と建元(けんげん)した。晋書(しんじょ)の載記(さいき)と穆帝(ぼくてい)紀(き)は即位を352年とし、資治通鑑(しじつがん)の日付は西暦では353年の初めにあたる。即位とともに妻の可足渾氏(かそくこんし)を皇后に、慕容(ぼよう)曄(よう)を皇太子に立てた。資治通鑑(しじつがん)は、立后を353年に置く。

治世と最期

東晋(とうしん)に従った段龕(だんかん)が帝位を認めなかったので、慕容(ぼよう)恪(かく)を送って広固(こうこ)を落とした。太子の慕容(ぼよう)曄(よう)が死ぬと、357年に次の子を皇太子に立て、大赦して光寿(こうじゅ)と改元(かいげん)した。薊(けい)から鄴(ぎょう)へ移って宮殿を修め、銅雀台(どうじゃくだい)を建て直した。資治通鑑(しじつがん)は、薊(けい)を発ったのを357年の末、鄴(ぎょう)の宮に入ったのを358年の初めとする。前秦(ぜんしん)の太守(たいしゅ)や刺史(しし)が郡や民戸(みんこ)を率いて降り、東晋(とうしん)の諸葛(しょかつ)攸(ゆう)が攻めてくると、東阿(とうあ)でこれを破った。病に臥(ふ)すと、太子が幼いので国を弟の慕容(ぼよう)恪(かく)に譲りたいと告げたが、慕容(ぼよう)恪(かく)は辞退して補佐を約した。360年に死に、景昭皇帝(しょうこうてい)と諡(おくりな)された。死んだ日を晋書(しんじょ)の穆帝(ぼくてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は8日違えて書く。

在位中の出来事(9件)

改元352年元号を「元璽」とする
大赦352年
立后352年
被反乱352年〜353年常山の李犢の反乱
改元357年元号を「光寿」とする
大赦357年
被反乱357年〜358年河間の李黒の反乱
大赦358年
遷都358年薊城 → 鄴城

前燕の歴代皇帝

2名の一覧

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。