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前燕(ぜんえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

幽帝(ゆうてい)慕容暐(ぼようい)

在位 360年2月27日〜370年12月11日(10年290日)

姓慕容(ぼよう)諱暐(い)字景茂(けいも)

幽帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 360年2月27日〜370年12月11日
在位 10年290日長さは365名中124位
没年
不詳35歳(数え年)267名中長寿順163位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第十一 慕容暐(附)
即位経路
晉書 載記第十一 慕容暐

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

慕容暐(ぼようい)は前燕(ぜんえん)の慕容儁(ぼようしゅん)の第三子で、中山王(ちゅうざんおう)に封ぜられたのち太子に立てられた。在位の大半は叔父の慕容(ぼよう)恪(かく)が政をとり、その死後に慕容垂(ぼようすい)が前秦(ぜんしん)へ去ると、国は前秦(ぜんしん)の王猛に攻め滅ぼされた。降ったのちは長安(ちょうあん)で新興侯(しんこうこう)として暮らしたが、前秦(ぜんしん)に背く謀が漏れて殺された。

即位まで

慕容儁(ぼようしゅん)が死ぬと群臣は慕容(ぼよう)恪(かく)を立てようとしたが、慕容(ぼよう)恪(かく)は国に太子がいると辞退し、太子の慕容暐(ぼようい)が立てられた。資治通鑑(しじつがん)は、病床の慕容儁(ぼようしゅん)が慕容(ぼよう)恪(かく)に位を譲ろうとし、慕容(ぼよう)恪(かく)が辞退して少主(しょうしゅ)を輔(たす)けると答えたと記し、即位時の慕容暐(ぼようい)を十一歳とする。即位して建熙(けんき)と改元(かいげん)し、母の可足渾氏(かそくこんし)を皇太后とし、慕容(ぼよう)恪(かく)を太宰(たいさい)として周公(しゅうこう)の事を行わせた。

治世と最期

慕容(ぼよう)恪(かく)は洛陽(らくよう)の金墉(きんよう)を攻め陥としたが、367年に病で死んだ。369年に東晋(とうしん)の桓温(かんおん)が枋頭(ほうとう)まで北伐(ほくばつ)してくると、慕容暐(ぼようい)は和龍(わりゅう)へ逃げようとしたが、慕容垂(ぼようすい)が迎え撃って襄邑(じょうゆう)で晋軍(しんぐん)を大破した。その功を太傅(たいふ)の慕容(ぼよう)評が妬み、可足渾氏(かそくこんし)も慕容垂(ぼようすい)を憎んで殺害を謀ったため、慕容垂(ぼようすい)は前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)のもとへ亡命した。370年、王猛が攻め寄せると、慕容(ぼよう)評は山泉を囲い込んで薪や水を売り、潞川(ろせん)で大敗した。鄴(ぎょう)では夜に城門が開かれて前秦(ぜんしん)軍が入り、逃れた慕容暐(ぼようい)は高陽(こうよう)で追いつかれ、苻堅(ふけん)に赦されて降った。苻堅(ふけん)は慕容暐(ぼようい)と鮮卑(せんぴ)四万余戸を長安(ちょうあん)へ移し、慕容暐(ぼようい)を新興侯(しんこうこう)とした。のち慕容(ぼよう)冲(ちゅう)が関中(かんちゅう)で挙兵すると、慕容暐(ぼようい)はこれに呼応して苻堅(ふけん)を殺そうと謀ったが、発覚して誅(ちゅう)された。晋書(しんじょ)苻堅(ふけん)載記(さいき)は子の婚礼を口実に苻堅(ふけん)を私邸へ招いて伏兵で殺す計画だったと記し、慕容暐(ぼようい)父子と一族、城内の鮮卑(せんぴ)がことごとく殺されたとする。資治通鑑(しじつがん)はこの事件を太元(たいげん)九年の末に置き、共謀した慕容(ぼよう)肅(しゅく)がまず殺されたとする。

在位中の出来事(4件)

改元360年元号を「建熙」とする
大赦360年
被反乱360年〜361年呂護の叛乱
大赦日付不詳

前燕の歴代皇帝

2名の一覧

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