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前秦(ぜんしん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

景明帝(けいめいてい)苻健(ふけん)

在位 352年〜355年7月10日(3年177日)

姓苻(ふ)諱健(けん)字建業(けんぎょう)廟号高祖(こうそ)

景明帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 352年〜355年7月10日
在位 3年177日長さは365名中216位
没年
355年7月10日39歳(数え年)267名中長寿順136位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲帝号を新たに称した
先代
  • 苻洪景明帝は苻洪の子
次代
  • 厲王前秦厲王は景明帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第十二 苻健
即位経路
晉書 載記第十二 苻健

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

苻健(ふけん)は苻洪(ふこう)の子で、関中(かんちゅう)に入って長安(ちょうあん)を都とし、352年に皇帝の位に即いた。354年には東晋(とうしん)の桓温(かんおん)の北伐(ほくばつ)を、麦を刈り取って野を清める策で退けた。

即位まで

字は建業(けんぎょう)で、苻洪(ふこう)の第三子である。父の苻洪(ふこう)が死ぬと跡を継ぎ、秦王(しんおう)の号を去って晋(しん)の爵位を称し、建康(けんこう)に喪を告げた。長安(ちょうあん)の杜(と)洪に西進の意図を悟られないよう、枋頭(ほうとう)で麦を植えさせ、知っていながら植えない者を殺した。兄の子の苻(ふ)菁(せい)の手を取って、事が成らなければお前は河北(かほく)で、わたしは河南(かなん)で死ぬと言い、黄河(こうが)を渡ると浮橋を焼いて関中(かんちゅう)へ進んだ。長安(ちょうあん)に入って都とすると、晋(しん)に戦勝を報じ、桓温(かんおん)とも好を通じた。351年に天王・大単于(ぜんう)を称して皇始(こうし)と建元(けんげん)し、翌352年には太極前殿で皇帝の位に即いて、大単于(ぜんう)の号を子の苻(ふ)萇(ちょう)に授けた。

治世と最期

やがて張遇の謀叛(むほん)が発覚したのち、孔特・劉(りゅう)珍らが各地で挙兵した。354年、桓温(かんおん)が四万の兵で長安(ちょうあん)に迫ると、苻健(ふけん)は弱兵六千で長安(ちょうあん)の小城(しょうじょう)を守り、精鋭三万を遊軍とし、麦を刈り取って野を清めたため、桓温(かんおん)の軍は飢えた。白鹿原(はくろくげん)の戦いを晋書(しんじょ)の載記(さいき)は晋軍(しんぐん)の敗北とし、資治通鑑(しじつがん)は桓(かん)冲(ちゅう)が苻雄(ふゆう)を破ったとして、勝敗が逆になっている。苻健(ふけん)は民と法三章(ほうさんしょう)を約し、税を軽くして宮室を質素にし、儒学を修めた。太子の苻(ふ)萇(ちょう)が桓温(かんおん)との戦いで流れ矢に当たって死ぬと、子の苻生(ふせい)を太子に立てた。355年、苻健(ふけん)が病に臥(ふ)すと、苻(ふ)菁(せい)が兵を率いて東宮(とうぐう)に入り苻生(ふせい)を殺して自立しようとしたが、苻健(ふけん)が端門(たんもん)に兵を並べると衆は逃げ散り、苻健(ふけん)は苻(ふ)菁(せい)を捕らえて殺した。資治通鑑(しじつがん)によれば、苻健(ふけん)は苻生(ふせい)に、命に従わない酋帥(しゅうすい)や大臣はしだいに除けと遺言し、その翌日に死んだ。諡(おくりな)を晋書(しんじょ)の載記(さいき)は明皇帝(めいこうてい)とし、資治通鑑(しじつがん)は景明皇帝(けいめいこうてい)とする。

在位中の出来事(9件)

親征352年6月〜352年7月24日張琚(宜秋に自立した「秦王」、杜洪の旧部将)
被反乱353年孔特(孔持)の乱
被反乱353年劉珍・夏侯顕の乱
被反乱353年〜354年喬秉(喬景)の乱
被反乱353年〜354年胡陽赤の乱
被反乱353年〜354年呼延毒の乱
親征354年桓温(東晋征西大将軍)
被反乱355年7月5日苻菁の乱(クーデター未遂)
立后日付不詳

前秦の歴代皇帝

5名の一覧

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