前秦(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
景明帝苻健
在位 352年〜355年7月10日(3年177日)
景明帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第十二 苻健
- 即位経路
- 晉書 載記第十二 苻健
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
苻健は苻洪の子で、関中に入って長安を都とし、352年に皇帝の位に即いた。354年には東晋の桓温の北伐を、麦を刈り取って野を清める策で退けた。
即位まで
字は建業で、苻洪の第三子である。父の苻洪が死ぬと跡を継ぎ、秦王の号を去って晋の爵位を称し、建康に喪を告げた。長安の杜洪に西進の意図を悟られないよう、枋頭で麦を植えさせ、知っていながら植えない者を殺した。兄の子の苻菁の手を取って、事が成らなければお前は河北で、わたしは河南で死ぬと言い、黄河を渡ると浮橋を焼いて関中へ進んだ。長安に入って都とすると、晋に戦勝を報じ、桓温とも好を通じた。351年に天王・大単于を称して皇始と建元し、翌352年には太極前殿で皇帝の位に即いて、大単于の号を子の苻萇に授けた。
治世と最期
やがて張遇の謀叛が発覚したのち、孔特・劉珍らが各地で挙兵した。354年、桓温が四万の兵で長安に迫ると、苻健は弱兵六千で長安の小城を守り、精鋭三万を遊軍とし、麦を刈り取って野を清めたため、桓温の軍は飢えた。白鹿原の戦いを晋書の載記は晋軍の敗北とし、資治通鑑は桓冲が苻雄を破ったとして、勝敗が逆になっている。苻健は民と法三章を約し、税を軽くして宮室を質素にし、儒学を修めた。太子の苻萇が桓温との戦いで流れ矢に当たって死ぬと、子の苻生を太子に立てた。355年、苻健が病に臥すと、苻菁が兵を率いて東宮に入り苻生を殺して自立しようとしたが、苻健が端門に兵を並べると衆は逃げ散り、苻健は苻菁を捕らえて殺した。資治通鑑によれば、苻健は苻生に、命に従わない酋帥や大臣はしだいに除けと遺言し、その翌日に死んだ。諡を晋書の載記は明皇帝とし、資治通鑑は景明皇帝とする。
在位中の出来事(9件)
前秦の歴代皇帝
5名の一覧- 第2代景明帝352–355年病死
- 第3代厲王355–357年暗殺
- 第5代哀平帝385–386年戦死
- 第6代高帝386–394年処刑
- 第7代末帝394年戦死