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成武帝の肖像

後燕(こうえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第1代分裂期の王朝

成武帝(せいぶてい)慕容垂(ぼようすい)

在位 386年3月15日〜396年6月2日(10年82日)

姓慕容(ぼよう)諱垂(すい)字道明(どうめい)幼名阿六敦(あろくとん)廟号世祖(せいそ)

成武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年3月15日〜396年6月2日
在位 10年82日長さは365名中133位
没年
396年6月2日71歳(数え年)267名中長寿順9位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
目立つ記録
  • 親征5回(109名中10位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷123 慕容垂載記
即位経路
晉書/卷123 慕容垂載記

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

前燕(ぜんえん)の宗室(そうしつ)として名を上げたが、迫害を逃れて前秦(ぜんしん)に仕え、淝水(ひすい)の戦いののち自立して後燕(こうえん)を建てた。

即位まで

前燕(ぜんえん)の慕容皝(ぼようこう)の第五子で、父に寵愛(ちょうあい)されて世子の慕容儁(ぼようしゅん)より厚く遇され、儁(しゅん)は快く思わなかった。369年、枋頭(ほうとう)で東晋(とうしん)の桓温(かんおん)を破って威名を高めたが、慕容(ぼよう)評に憎まれて殺されそうになり、前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)のもとへ奔った。苻堅(ふけん)は郊外まで出迎えて手を取り、王猛が殺すよう勧めても従わず、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)に任じた。王猛の計略で子が東へ逃げると慕容垂(ぼようすい)も恐れて逃げたが、捕らえられても苻堅(ふけん)は罪を問わなかった。383年、淝水(ひすい)で前秦(ぜんしん)が敗れたとき慕容垂(ぼようすい)の軍だけが無傷で、苻堅(ふけん)が身を寄せてくると、子の慕容宝(ぼようほう)と弟の慕容徳(ぼようとく)は苻堅(ふけん)を除くよう説いたが、慕容垂(ぼようすい)は退けて兵を苻堅(ふけん)に返した。その後、目付役(めつけやく)の苻(ふ)飛龍(ひりゅう)を殺して兵を集め、黄河(こうが)を渡って橋を焼き、滎陽(けいよう)で燕王(えんおう)を称した。燕王(えんおう)を称したのを晋書(しんじょ)の載記(さいき)は太元(たいげん)八年とし、資治通鑑(しじつがん)は翌太元(たいげん)九年の条に置く。386年、中山(ちゅうざん)を都として皇帝の位に即き、建興(けんこう)と改元(かいげん)して慕容宝(ぼようほう)を太子とした。

治世と最期

394年、諸将の諫(いさ)めにいったんは従いかけたが、慕容徳(ぼようとく)の策を聞くと、老いても袋の底の知恵で勝てると言って西燕(せいえん)の慕容永(ぼようえい)を攻め、捕らえて殺した。395年、太子の慕容宝(ぼようほう)に北魏(ほくぎ)を討たせたが、参合(さんごう)で夜襲を受けて全軍が潰えた。翌年、自ら大軍を率いて山を開いて進み、遣わした慕容宝(ぼようほう)や慕容(ぼよう)隆らが平城(へいじょう)の北魏(ほくぎ)軍を破った。参合(さんごう)を通ると前年の戦場に骸骨が山のように積まれており、弔祭(ちょうさい)して兵が皆慟哭(どうこく)するなか、恥じ憤って血を吐き、病に倒れた。上谷(じょうこく)の沮陽(そよう)で死に、喪を秘して都に着いてから発するよう遺令(いれい)した。魏書(ぎしょ)の太祖(たいそ)紀(き)は、病が重くなって逃げ去り上谷(じょうこく)で死んだとだけ書き、参合(さんごう)での弔祭(ちょうさい)や吐血には触れない。

在位中の出来事(9件)

親征384年〜386年前秦(苻丕)
改元386年元号を「建興」とする
大赦386年
親征386年〜387年翟遼(丁零・翟魏)
被反乱386年〜387年清河太守賀耕の乱
親征392年翟釗(丁零・翟魏)
親征394年西燕(慕容永)
親征396年4月20日〜396年5月5日北魏(拓跋部)
立后日付不詳

後燕の歴代皇帝

6名の一覧

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