後燕(五胡十六国)第3代分裂期の王朝
慕容詳
在位 397年〜397年(183日)
姓慕容諱詳
慕容詳の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷124
- 即位経路
- 晉書/卷124
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
慕容詳は後燕の開封公で、397年に慕容宝が北魏に囲まれた中山を出たのち、城中の人々に主に立てられ、やがて皇帝を称した。飢えた城中で殺戮を重ね、その年のうちに慕容麟に急襲されて斬られた。
即位まで
397年、魏軍が中山に迫るなか、慕容宝は慕容詳に中山を守らせて、自らは慕容会を迎えに出た。資治通鑑によれば、慕容宝らが夜に中山を出たあと、城中の人々が慕容詳を主に立て、門を閉ざして魏軍を拒いだ。慕容詳は魏軍を退けたことを自負して皇帝の位に即き、建始と改元して百官を置いた。魏書は慕容詳を普鄰の名で呼び、晋書の載記は元号の名を記さない。
治世と最期
慕容宝が遣わした庫傉官驥が中山に入ると、慕容詳はこれと攻め合って殺し、その一族を滅ぼした。歩卒六千で魏の屯営を襲ったが、魏王の拓跋珪に撃破された。晋書の載記によれば、慕容詳は酒色におぼれて殺戮に際限がなく、王公以下五百余人を誅し、城中は飢えて公卿にも餓死する者が出た。資治通鑑は、城中が飢えても民が野生の穀物を採りに出ることを許さず、人々は趙王の慕容麟を迎えようと謀るに至ったと記す。慕容詳は慕容麟を急襲して妻子を捕らえ、慕容宝に背いて逃げてきた慕容会も殺した。やがて租を取り立てに出した張驤の軍に慕容麟が入り込み、閉じていなかった城門から中山を急襲して、慕容詳とその親党を斬った。その月を晋書の安帝紀は資治通鑑や魏書より二か月遅く置いている。北魏が中山を落とすと、拓跋珪は慕容詳の墓を暴いて屍を斬った。
在位中の出来事(2件)
被反乱397年8月慕容麟・丁零軍による中山攻撃
改元日付不詳元号を「建始」とする