後燕(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
恵愍帝慕容宝
在位 396年6月21日〜398年5月27日(1年340日)
恵愍帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷124 慕容寶載記
- 即位経路
- 晉書/卷124 慕容寶載記
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の慕容垂の後を継いだ後燕の皇帝で、北魏に敗れて都の中山を捨て、最後は身内の蘭汗に殺された。
即位まで
慕容垂の第四子で、晋書の載記は、若いころは軽はずみで節操がなく、へつらう者を好んだと書く。383年、淝水で敗れた苻堅が父の軍に身を寄せると、苻堅を除いて燕を復興するよう説いたが、父は退けた。395年、太子として八万を率いて北魏を討ったが、参合で夜襲を受けて全軍が潰え、数千騎で逃れた。資治通鑑は、このとき燕兵四、五万人が一時に武器を捨てて捕らえられたとする。396年、父の死後に位を継いで大赦し、永康と改元した。父は清河公の慕容会を後継ぎにと遺していたが、慕容宝は少子の慕容策を寵愛して皇太子に立てた。
治世と最期
戸口を調べて士族の旧籍を定めたが、法が厳しく、乱を思う民は十のうち九に及んだと載記は書く。資治通鑑によれば、父の後妻の段后に自害を迫らせ、段后は自殺した。397年、北魏軍と柏肆で戦って夜襲に失敗し、中山へ退く途中、大風雪で凍死者が道に重なった。同じ年、慕容麟の動きを恐れて中山を捨て、龍城へ退いた。中山に残った慕容詳について、載記は守りを任されたとし、資治通鑑は追いつけずに城内で主に立てられたとし、魏書はこの人物を普鄰の名で記す。庶子の慕容会が叛いて慕容宝を攻めたが、高雲の夜襲で破られた。398年、南征の途中で兵が段速骨らの反乱に走り、慕容宝は龍城へ逃げ帰った。父の母方の叔父で慕容盛の岳父でもある蘭汗に迎えられると、裏切らないと考えて龍城に戻ったが、外邸に引き入れられて殺された。その年を晋書の安帝紀と資治通鑑は398年とし、載記は翌年とする。のちに子の慕容盛が位に即き、恵愍皇帝と諡した。