後燕(五胡十六国)第6代分裂期の王朝
昭武帝慕容盛
在位 398年〜400年(1年167日)
姓慕容諱盛字道運廟号中宗
昭武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷124
- 即位経路
- 晉書/卷124
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
慕容盛は後燕の慕容宝の庶長子で、398年に父を殺した蘭汗を斬って位に即いた。猜疑から先回りの誅殺を重ね、401年、禁中の騒乱のさなかに暗がりから撃たれて死んだ。
即位まで
398年、慕容宝が蘭汗に殺されると、慕容盛は将軍張真の諫めを退け、蘭汗は婚姻の縁を顧みて自分を殺さないと言って弔問に赴いた。資治通鑑によれば、蘭汗は慕容垂の舅であり、慕容盛の妃の父でもあった。蘭汗と子の蘭穆が酔った夜、慕容盛は厠に立った機に垣を越え、李旱らと蘭穆を殺し、進んで蘭汗を斬った。すぐには尊号を称さず、長楽王として称制して建平と改元した。丁零の厳生や烏丸王龍之と結んで叛いた慕容奇を破って捕らえたのち、皇帝の位に即いた。捕らえた慕容奇について、資治通鑑は死を賜ったと記し、晋書の載記は連れ帰ったとのみ記す。
治世と最期
399年、遼西太守の李朗を疑って一族を滅ぼし、魏に通じた李朗も李旱らに攻められて斬られた。慕容盛はのちに皇帝の号を去り、晋書の載記では庶人大王、資治通鑑では庶人天王、十六国春秋別伝では庶民天王を称したとされる。400年には三万の兵で高句麗を伐ち、新城と南蘇を落として五千余戸を遼西へ移した。威厳で下を御して親しむ者が少なく、左将軍慕容国が禁兵で襲おうとした謀が発覚したときには、五百余人が殺された。401年、段璣や秦興らが夜に禁中で騒ぎを起こし、慕容盛は出て戦って賊を潰えさせたが、暗がりから一人の賊に撃たれて傷を負い、叔父の慕容熙が着く前に死んだ。載記・資治通鑑・魏書・十六国春秋別伝は撃った賊の名を記さず、晋書の安帝紀だけが段璣が慕容盛を殺したと書く。
在位中の出来事(10件)
改元398年元号を「建平」とする
大赦398年
親征398年慕容奇(丁零嚴生・烏丸王龍之ら反乱勢力)
被反乱398年慕容奇の乱
改元399年元号を「長楽」とする
被反乱399年李朗(遼西太守)の叛乱
親征400年3月26日〜400年3月高句麗
親征401年庫莫奚
被反乱401年段玑・秦興・段泰らのクーデター(盛弑逆)
大赦日付不詳