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後燕(こうえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第6代分裂期の王朝

昭武帝(しょうぶてい)慕容盛(ぼようせい)

在位 398年〜400年(1年167日)

姓慕容(ぼよう)諱盛(せい)字道運(どううん)廟号中宗(ちゅうそう)

昭武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 398年〜400年
在位 1年167日長さは365名中275位
没年
401年9月29歳(数え年)267名中長寿順196位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪帝号を新たに称した
先代
次代
  • 昭文帝後燕昭文帝は昭武帝の叔父

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷124
即位経路
晉書/卷124

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

慕容盛(ぼようせい)は後燕(こうえん)の慕容宝(ぼようほう)の庶長子(しょちょうし)で、398年に父を殺した蘭汗(らんかん)を斬って位に即いた。猜疑(さいぎ)から先回りの誅殺(ちゅうさつ)を重ね、401年、禁中(きんちゅう)の騒乱のさなかに暗がりから撃たれて死んだ。

即位まで

398年、慕容宝(ぼようほう)が蘭汗(らんかん)に殺されると、慕容盛(ぼようせい)は将軍(しょうぐん)張真の諫(いさ)めを退け、蘭汗(らんかん)は婚姻の縁を顧みて自分を殺さないと言って弔問に赴いた。資治通鑑(しじつがん)によれば、蘭汗(らんかん)は慕容垂(ぼようすい)の舅であり、慕容盛(ぼようせい)の妃の父でもあった。蘭汗(らんかん)と子の蘭(らん)穆(ぼく)が酔った夜、慕容盛(ぼようせい)は厠(かわや)に立った機に垣を越え、李(り)旱(かん)らと蘭(らん)穆(ぼく)を殺し、進んで蘭汗(らんかん)を斬った。すぐには尊号(そんごう)を称さず、長楽王(ちょうらくおう)として称制(しょうせい)して建平(けんぺい)と改元(かいげん)した。丁零(ていれい)の厳生や烏丸(うがん)王龍之(りゅうし)と結んで叛(そむ)いた慕容(ぼよう)奇を破って捕らえたのち、皇帝の位に即いた。捕らえた慕容(ぼよう)奇について、資治通鑑(しじつがん)は死を賜ったと記し、晋書(しんじょ)の載記(さいき)は連れ帰ったとのみ記す。

治世と最期

399年、遼西(りょうせい)太守(たいしゅ)の李(り)朗を疑って一族を滅ぼし、魏(ぎ)に通じた李(り)朗も李(り)旱(かん)らに攻められて斬られた。慕容盛(ぼようせい)はのちに皇帝の号を去り、晋書(しんじょ)の載記(さいき)では庶人大王(しょじんだいおう)、資治通鑑(しじつがん)では庶人天王(しょじんてんおう)、十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)別伝(べつでん)では庶民天王を称したとされる。400年には三万の兵で高句麗(こうくり)を伐ち、新城(しんじょう)と南蘇(なんそ)を落として五千余戸を遼西(りょうせい)へ移した。威厳で下を御して親しむ者が少なく、左将軍(さしょうぐん)慕容(ぼよう)国が禁兵(きんぺい)で襲おうとした謀が発覚したときには、五百余人が殺された。401年、段璣(き)や秦興(しんこう)らが夜に禁中(きんちゅう)で騒ぎを起こし、慕容盛(ぼようせい)は出て戦って賊を潰えさせたが、暗がりから一人の賊に撃たれて傷を負い、叔父の慕容熙(ぼようき)が着く前に死んだ。載記(さいき)・資治通鑑(しじつがん)・魏書(ぎしょ)・十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)別伝(べつでん)は撃った賊の名を記さず、晋書(しんじょ)の安帝(あんてい)紀(き)だけが段璣(き)が慕容盛(ぼようせい)を殺したと書く。

在位中の出来事(10件)

改元398年元号を「建平」とする
大赦398年
親征398年慕容奇(丁零嚴生・烏丸王龍之ら反乱勢力)
被反乱398年慕容奇の乱
改元399年元号を「長楽」とする
被反乱399年李朗(遼西太守)の叛乱
親征400年3月26日〜400年3月高句麗
親征401年庫莫奚
被反乱401年段玑・秦興・段泰らのクーデター(盛弑逆)
大赦日付不詳

後燕の歴代皇帝

6名の一覧

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