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後燕(こうえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第4代分裂期の王朝

慕容麟(ぼようりん)

在位 397年〜398年(151日)

姓慕容(ぼよう)諱麟(りん)

慕容麟の人物データ

生年
不詳
在位
  • 397年〜398年
在位 151日長さは365名中326位
没年
398年
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
簒奪
先代
  • 慕容詳後燕慕容麟は慕容詳の同族(遠縁)
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷127 慕容徳載記
即位経路
晉書/卷124

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

慕容麟(ぼようりん)は後燕(こうえん)の慕容垂(ぼようすい)の子で、397年に中山(ちゅうざん)で慕容詳(ぼようしょう)を斬って尊号(そんごう)を称した。同じ年に義台(ぎだい)で北魏(ほくぎ)に大敗して鄴(ぎょう)へ逃れ、翌年、身を寄せた慕容徳(ぼようとく)のもとで謀反を企てて死んだ。

即位まで

慕容垂(ぼようすい)の年少の子で父に愛されず、慕容垂(ぼようすい)が鄴(ぎょう)を脱出しようとしたとき、逃げ帰って燕(えん)に告げた。慕容垂(ぼようすい)はこれを理由に慕容麟(ぼようりん)の母を殺したが、慕容麟(ぼようりん)は殺さず、のちには献策を奇として他の子と同じく寵遇(ちょうぐう)した。397年、魏(ぎ)軍に囲まれた中山(ちゅうざん)で、慕容麟(ぼようりん)は慕容宝(ぼようほう)を弑(しい)させようとして果たせず、丁零(ていれい)へ出奔(しゅっぽん)した。慕容宝(ぼようほう)が中山(ちゅうざん)を出たのち、慕容麟(ぼようりん)は慕容詳(ぼようしょう)に襲われて妻子を奪われ、山に逃れた。やがて慕容詳(ぼようしょう)が遣わした張驤(じょう)の軍に丁零(ていれい)から入り込んで中山(ちゅうざん)を急襲し、慕容詳(ぼようしょう)を斬って尊号(そんごう)を称した。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、慕容麟(ぼようりん)は民が野生の穀物を採りに出るのを許したが、魏(ぎ)と戦うことを求める民には応じず、城中は再び窮乏した。飢えが甚だしくなると、慕容麟(ぼようりん)は兵を率いて新市に出たが、義台(ぎだい)で魏王(ぎおう)の拓跋(たくばつ)珪(けい)に大敗し、数十騎で西山(せいざん)に入って鄴(ぎょう)へ逃れた。398年、鄴(ぎょう)で再び趙王(ちょうおう)を称し、慕容徳(ぼようとく)に南の滑台(かつだい)へ移るよう説いた。慕容徳(ぼようとく)が燕王(えんおう)を称すると、慕容麟(ぼようりん)は司空(しくう)・領尚書令(りょうしょうしょれい)に任じられたが、河間(かかん)に麒麟(きりん)が現れたのを自分の瑞祥(ずいしょう)と考えてひそかに乱を謀った。発覚した慕容麟(ぼようりん)に、晋書(しんじょ)の慕容徳(ぼようとく)載記(さいき)は死を賜ったとし、資治通鑑(しじつがん)と魏書(ぎしょ)は慕容徳(ぼようとく)が殺したとする。

在位中の出来事(1件)

親征397年10月〜397年11月北魏

後燕の歴代皇帝

6名の一覧

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