北斉(南北朝)第6代分裂期の王朝
幼主高恒
在位 577年2月4日〜577年2月24日(20日)
姓高諱恒
幼主の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 北史 巻十 周本紀下/北齊書 巻8・巻11
- 即位経路
- 北齊書 巻8 幼主紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
高恒は北斉の後主高緯の長子で、577年、北周軍に追われる中で父から位を譲られた。即位からまもなく父とともに東へ逃れ、青州の南で北周軍に捕らえられて長安へ送られ、のちに高緯の一族とともに死を賜ったと見られる。
即位まで
高恒は母を穆皇后とし、570年に鄴で生まれ、その年のうちに皇太子に立てられた。すでに鄴に戻っていた高緯は、北周軍が晋陽を落とすと、高元海・李徳林らと禅位を議し、望気者の言を受けて、天統の故事に倣い皇太子に位を授けた。577年、高恒は即位して承光と改元し、高緯は太上皇帝となった。
治世と最期
顔之推らが河外での募兵と、成らねば陳へ逃れることを勧めると、太上皇帝はこれに従い、高恒も鄴を出て東へ逃れた。北斉書によれば、太上皇帝が黄河を渡った日に高恒は任城王高湝に禅位し、斛律孝卿に禅文と璽を届けさせたが、孝卿はそれを持って北周に帰した。北斉書は高恒の新たな称号を守国天王とし、資治通鑑は宋国天王とする。周書の武帝紀は、使者を送ったのを高緯とし、高恒自身の禅位を記さない。高緯と高恒は青州へ走って陳に入ろうとしたが、北周に内通した高阿那肱に足止めされ、鄧村で北周軍に捕らえられて鄴へ送られた。北周の武帝は高緯らを長安へ送り、高緯は温国公とされた。のちに高緯が謀反を誣告され、一族が老若の別なく死を賜ったとき、高恒もその中にあったと見られる。高恒を名指しで死を賜ったとする記事は北斉書・北史・周書・資治通鑑のいずれにも無く、その年も北斉書は578年、周書と資治通鑑は577年として分かれる。のちに陽休之らが楊堅に願い出て、高緯らは長安の北原の洪瀆川に葬られた。
在位中の出来事(2件)
改元577年2月4日元号を「承光」とする
大赦577年2月4日