北斉(南北朝)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
高紹義
在位 578年1月〜580年7月27日(2年208日)
姓高諱紹義
高紹義の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 578年1月〜580年7月27日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳365名中33名
- 即位経路
- 推戴対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 北史 巻52 范陽王紹義傳
- 即位経路
- 北史 巻52 范陽王紹義傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
北斉が北周に滅ぼされたのち突厥に身を寄せて皇帝を称し、突厥から北周へ引き渡されて蜀で死んだ文宣帝の子である。
即位まで
文宣帝の第三子で、広陽王から范陽王に封じ替えられた。後主が鄴へ逃れたときに定州刺史となり、577年に北周が并州を取ると、北朔州の旧臣趙穆らに迎えられ、肆州以北の城戍二百八十余りがこれに応じた。并州を取り戻せずに北周軍に敗れると、人に降ることはできないと言って突厥へ奔った。突厥の他鉢可汗は、文宣帝に似ているとして厚くもてなし、北にいる斉人をすべて彼に属させた。北史によれば、営州の高宝寧が尊号を奉ったのを受けて皇帝の位に就き、武平の年号を用いた。周書の突厥伝は、他鉢が彼を斉帝に立てたと書き、擁立した側を突厥とする。
治世と最期
578年に北周の武帝が北伐の直前に没すると、天が助けたと考えて幽州へ出たが、范陽が落ちたと聞いて突厥へ引き返した。北周は他鉢に引き渡しを求め、周書の突厥伝によれば、他鉢は千金公主を迎えるときにも応じず、580年に賀若誼が諭してようやく送ってきた。北史は、他鉢が狩りを装って賀若誼に捕らえさせたと書き、隋書の賀若誼伝は、賀若誼が馬邑で戦って捕らえたと書く。蜀へ流され、突厥から逃げ帰った妃に、夷狄は信が無いと書き送り、そのまま蜀で死んだ。北史と北斉書の伝は没年も死因も記さず、資治通鑑だけが、久しくして蜀で病死したと書く。
在位中の出来事(2件)
親征578年幽州・范陽(旧北斉領、対北周)奪回作戦
改元578年1月元号を「武平」とする