北斉(南北朝)第5代分裂期の王朝
後主高緯
在位 565年6月8日〜577年2月4日(11年244日)
後主の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 周書 巻六 武帝紀下/北史 巻十 周本紀下/資治通鑑 巻百七十三
- 即位経路
- 北齊書 巻8 後主紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
高緯は北斉の武成帝の長子で、565年に父の譲位を受けて即位し、北斉の最後の時期を治めた。576年から翌年にかけて北周の武帝に晋州の城南で大敗して鄴へ逃げ、子の高恒に位を譲ったのち青州の南で捕らえられ、長安へ送られて死を賜った。
即位まで
高緯は母を胡皇后とし、556年に并州の邸で生まれた。父に特に寵愛され、武成帝が即位すると562年に皇太子に立てられた。565年、太史が天文に王が易わる兆しがあると奏上したため、武成帝は高緯に位を伝え、自らは太上皇帝として軍国の大事を見続けた。高緯は晋陽宮で即位して大赦し、天統と改元した。北斉書の後主紀は本来の巻が失われて補われた巻である。
治世と最期
571年、弟の琅邪王高儼が詔を偽って和士開を殺すと、高緯は高儼を殺した。572年には左丞相の斛律光とその弟を誅し、斛律光の娘の皇后も廃した。斛律光伝によれば、北周の韋孝寛が流した謡言を祖珽と陸令萱が讒言に使い、斛律光は呼び寄せられて劉桃枝に絞め殺された。573年には蘭陵王高長恭も殺した。高緯は無愁の曲を作って自ら胡琵琶を弾いて歌い、世間は無愁天子と呼び、本紀は陸令萱・穆提婆らが天下を取り仕切り、官も獄も金で決まったと書く。北周の武帝に晋州の城南で大敗すると、高緯は軍を捨てて晋陽へ戻り、隆化と改元して鄴へ逃げた。577年、子の高恒に位を譲って太上皇帝となり、陳へ逃れようとしたが、青州の南の鄧村で北周軍に捕らえられた。捕らえた将の名を北斉書は尉遅綱とし、周書は尉遅勤として、資治通鑑考異は周書に従う。長安で温国公に封じられたが、穆提婆との謀反を誣告され、一族とともに死を賜った。その年を北斉書は578年とし、周書と資治通鑑は577年とする。