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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))第5代分裂期の王朝

後主(こうしゅ)高緯(こうい)

在位 565年6月8日〜577年2月4日(11年244日)

姓高(こう)諱緯(い)字仁綱(じんこう)

後主の人物データ

生年
556年5月29日
在位
  • 565年6月8日〜577年2月4日
在位 11年244日10歳で即位(数え年)・長さは365名中117位
没年
577年11月22歳(数え年)267名中長寿順224位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
内禅
先代
次代
目立つ記録
  • 立后3回(202名中5位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
周書 巻六 武帝紀下/北史 巻十 周本紀下/資治通鑑 巻百七十三
即位経路
北齊書 巻8 後主紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

高緯(こうい)は北斉(ほくせい)の武成帝(ぶせいてい)の長子で、565年に父の譲位を受けて即位し、北斉(ほくせい)の最後の時期を治めた。576年から翌年にかけて北周(ほくしゅう)の武帝(ぶてい)に晋州(しんしゅう)の城南で大敗して鄴(ぎょう)へ逃げ、子の高(こう)恒(こう)に位を譲ったのち青州(せいしゅう)の南で捕らえられ、長安(ちょうあん)へ送られて死を賜った。

即位まで

高緯(こうい)は母を胡(こ)皇后(こうごう)とし、556年に并州(へいしゅう)の邸で生まれた。父に特に寵愛(ちょうあい)され、武成帝(ぶせいてい)が即位すると562年に皇太子に立てられた。565年、太史が天文に王が易わる兆しがあると奏上したため、武成帝(ぶせいてい)は高緯(こうい)に位を伝え、自らは太上(たいじょう)皇帝として軍国の大事を見続けた。高緯(こうい)は晋陽宮(しんようきゅう)で即位して大赦し、天統(てんとう)と改元(かいげん)した。北斉(ほくせい)書の後主(こうしゅ)紀(き)は本来の巻が失われて補われた巻である。

治世と最期

571年、弟の琅邪王(ろうやおう)高儼(げん)が詔を偽って和士開(しかい)を殺すと、高緯(こうい)は高儼(げん)を殺した。572年には左丞相(じょうしょう)の斛律(こくりつ)光とその弟を誅(ちゅう)し、斛律(こくりつ)光の娘の皇后も廃した。斛律光伝(こくりつこうでん)によれば、北周(ほくしゅう)の韋孝寛(いこうかん)が流した謡言を祖珽(てい)と陸令萱(れいけん)が讒言(ざんげん)に使い、斛律(こくりつ)光は呼び寄せられて劉(りゅう)桃枝(とうし)に絞め殺された。573年には蘭陵(らんりょう)王高長恭(ちょうきょう)も殺した。高緯(こうい)は無愁(むしゅう)の曲を作って自ら胡琵琶(こびわ)を弾いて歌い、世間は無愁天子(むしゅうてんし)と呼び、本紀(ほんぎ)は陸令萱(れいけん)・穆提婆(ぼくだいば)らが天下を取り仕切り、官も獄も金で決まったと書く。北周(ほくしゅう)の武帝(ぶてい)に晋州(しんしゅう)の城南で大敗すると、高緯(こうい)は軍を捨てて晋陽(しんよう)へ戻り、隆化(りゅうか)と改元(かいげん)して鄴(ぎょう)へ逃げた。577年、子の高(こう)恒(こう)に位を譲って太上(たいじょう)皇帝となり、陳へ逃れようとしたが、青州(せいしゅう)の南の鄧村(とうそん)で北周(ほくしゅう)軍に捕らえられた。捕らえた将の名を北斉(ほくせい)書は尉遅綱(うっちこう)とし、周書(しゅうしょ)は尉遅(うっち)勤として、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は周書(しゅうしょ)に従う。長安(ちょうあん)で温国公(おんこくこう)に封じられたが、穆提婆(ぼくだいば)との謀反を誣告(ぶこく)され、一族とともに死を賜った。その年を北斉(ほくせい)書は578年とし、周書(しゅうしょ)と資治通鑑(しじつがん)は577年とする。

在位中の出来事(22件)

改元565年6月8日元号を「天統」とする
大赦565年6月8日天統元年四月丙子、晋陽宮での即位に伴う大赦。
大赦567年天統三年二月壬寅朔、帝の元服の礼に伴う大赦。
大赦567年天統三年十一月丙午、晋陽の大明殿完成を機とする大赦。
大赦569年天統四年十二月丙子(辛未の武成帝崩御から5日後)の大赦。
改元570年元号を「武平」とする
大赦570年武平元年六月甲辰、皇子恒(後の幼主)誕生を理由とする大赦。
被反乱571年琅邪王高俨の矯詔クーデター
大赦572年武平三年十月甲午、弘德夫人穆氏を左皇后に立てた際の大赦。
立后572年武平三年八月戊子、右昭儀胡氏を皇后に冊立。
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立后572年
立后573年武平四年二月乙巳、左皇后穆氏を(単独の正式な)皇后に昇格・冊立。
被反乱573年信州の賊徒蜂起
大赦574年武平五年五月庚午、大旱に伴う大赦。
被反乱574年高思好(南安王)の朔州反乱
大赦576年武平七年正月甲寅、大赦。
親征576年11月〜577年1月北周軍(晋州救援・周武帝との会戦)
改元577年1月元号を「隆化」とする
大赦577年1月武平七年十二月甲寅、晋州の戦いで大敗し晋陽に逃げ帰った直後の大赦。
大赦577年1月武平七年十二月丁巳、武平七年を隆化元年に改元した同日の大赦。
被反乱577年1月安徳王高延宗の晋陽における皇帝僭称
被反乱日付不詳鄭子饒の乱(自称「長楽王」)

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

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