北斉(南北朝)第1代分裂期の王朝
文宣帝高洋
在位 550年6月9日〜559年11月25日(9年171日)
姓高諱洋字子進廟号顕祖
文宣帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 北齊書 巻4 文宣帝紀
- 即位経路
- 北齊書 巻4 文宣帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
東魏から禅譲を受けて北斉を建てた皇帝で、初めは政に励んだが、のちに酒に溺れて残虐な殺戮を重ねた。北斉書の論は、昏邪残暴は近世に例がなく、在位が長くなかったのもこの病によるとする。
即位まで
高歓の第二子で、兄の高澄とは母を同じくする。549年に高澄が殺されると、顔色を変えずに指揮して賊を自ら斬り、晋陽へ赴いて政を総べた。北史によれば、徐之才が受禅を盛んに勧め、斛律金は強く反対し、母の婁太后は高徳正がそそのかしたのだと語った。550年、東魏の孝静帝が帝位を斉に譲って別宮へ退き、文宣帝は南郊で即位して天保と改元した。即位の翌日、退いた孝静帝を中山王に封じた。魏書の孝静紀は552年の初めの死の条では死因を書かないが、紀の末尾では鴆毒で没したと記し、北史と資治通鑑も鴆毒で殺されたとする。
治世と最期
即位の当初は政に心を用い、法で臣下を御して、近親や旧臣でも違反を許さなかった。即位の年、攻め寄せた西魏の宇文泰は、北斉の軍容の盛んなのを見て、高歓は死んでいないと嘆じて兵を退いた。即位して六、七年すると功業を誇り、酒に溺れて淫暴をほしいままにし、人の手足を断ち、火で焼き、河に投じて殺した。北史によれば、酔って床を持ち上げて母の婁太后を落とし、醒めて恥じて酒を断ったが、十日でもとに戻った。558年には弟の永安王浚と上党王渙を殺した。559年には東魏の帝室の元氏を誅し、殺された者を北史は三千人、資治通鑑は七百二十一人とし、屍は漳水に棄てられた。同じ年、晋陽宮で急に没した。北斉書は、晩年は食事ができず酒ばかり飲み、酒が災いとなって死に至ったとする。
在位中の出来事(16件)
改元550年6月9日元号を「天保」とする
大赦550年6月9日
立后550年7月
親征550年12月西魏(丞相宇文泰、史書は『周文帝』と追記)
親征552年庫莫奚(東北方の遊牧異民族、非服属の外敵)
親征553年山胡(稽胡、離石周辺)
親征553年契丹
親征553年〜554年突厥
被反乱553年〜554年山胡(稽胡)の反乱(離石・石楼)
親征554年山胡(稽胡、石楼)
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親征554年茹茹(庵羅辰)
被反乱554年〜555年庵羅辰(茹茹可汗)の反乱
親征555年茹茹
大赦556年
大赦558年
大赦558年