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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))第1代分裂期の王朝

文宣帝(ぶんせんてい)高(こう)洋(よう)

在位 550年6月9日〜559年11月25日(9年171日)

姓高(こう)諱洋(よう)字子進(ししん)廟号顕祖(けんそ)

文宣帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 550年6月9日〜559年11月25日
在位 9年171日長さは365名中138位
没年
559年11月25日31歳(数え年)267名中長寿順182位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 孝静帝東魏文宣帝は孝静帝の外戚
次代
  • 廃帝北斉廃帝は文宣帝の子
目立つ記録
  • 親征8回(109名中3位)

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 巻4 文宣帝紀
即位経路
北齊書 巻4 文宣帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

東魏(とうぎ)から禅譲(ぜんじょう)を受けて北斉(ほくせい)を建てた皇帝で、初めは政に励んだが、のちに酒に溺れて残虐な殺戮(さつりく)を重ねた。北斉(ほくせい)書の論は、昏邪残暴(こんじゃざんぼう)は近世に例がなく、在位が長くなかったのもこの病によるとする。

即位まで

高歓(こうかん)の第二子で、兄の高澄(こうちょう)とは母を同じくする。549年に高澄(こうちょう)が殺されると、顔色を変えずに指揮して賊を自ら斬り、晋陽(しんよう)へ赴いて政を総べた。北史(ほくし)によれば、徐之才(しさい)が受禅(じゅぜん)を盛んに勧め、斛律(こくりつ)金は強く反対し、母の婁太后(ろうたいこう)は高徳正(とくせい)がそそのかしたのだと語った。550年、東魏(とうぎ)の孝静帝(こうせいてい)が帝位を斉に譲って別宮(べつぐう)へ退き、文宣帝(ぶんせんてい)は南郊で即位して天保(てんぽう)と改元(かいげん)した。即位の翌日、退いた孝静帝(こうせいてい)を中山王(ちゅうざんおう)に封じた。魏書(ぎしょ)の孝静(こうせい)紀(き)は552年の初めの死の条では死因を書かないが、紀(き)の末尾では鴆毒(ちんどく)で没したと記し、北史(ほくし)と資治通鑑(しじつがん)も鴆毒(ちんどく)で殺されたとする。

治世と最期

即位の当初は政に心を用い、法で臣下を御して、近親や旧臣でも違反を許さなかった。即位の年、攻め寄せた西魏(せいぎ)の宇文泰(うぶんたい)は、北斉(ほくせい)の軍容の盛んなのを見て、高歓(こうかん)は死んでいないと嘆じて兵を退いた。即位して六、七年すると功業を誇り、酒に溺れて淫暴をほしいままにし、人の手足を断ち、火で焼き、河に投じて殺した。北史(ほくし)によれば、酔って床を持ち上げて母の婁太后(ろうたいこう)を落とし、醒めて恥じて酒を断ったが、十日でもとに戻った。558年には弟の永安王(えいあんおう)浚(しゅん)と上党王(じょうとうおう)渙(かん)を殺した。559年には東魏(とうぎ)の帝室の元氏(げんし)を誅(ちゅう)し、殺された者を北史(ほくし)は三千人、資治通鑑(しじつがん)は七百二十一人とし、屍(しかばね)は漳水(しょうすい)に棄てられた。同じ年、晋陽宮(しんようきゅう)で急に没した。北斉(ほくせい)書は、晩年は食事ができず酒ばかり飲み、酒が災いとなって死に至ったとする。

在位中の出来事(16件)

改元550年6月9日元号を「天保」とする
大赦550年6月9日
立后550年7月
親征550年12月西魏(丞相宇文泰、史書は『周文帝』と追記)
親征552年庫莫奚(東北方の遊牧異民族、非服属の外敵)
親征553年山胡(稽胡、離石周辺)
親征553年契丹
親征553年〜554年突厥
被反乱553年〜554年山胡(稽胡)の反乱(離石・石楼)
親征554年山胡(稽胡、石楼)
残り6件を表示
親征554年茹茹(庵羅辰)
被反乱554年〜555年庵羅辰(茹茹可汗)の反乱
親征555年茹茹
大赦556年
大赦558年
大赦558年

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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