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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))第3代分裂期の王朝

孝昭帝(こうしょうてい)高演(こうえん)

在位 560年9月8日〜561年11月24日(1年77日)

姓高(こう)諱演(えん)字延安(えんあん)廟号粛宗(しゅくそう)

孝昭帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 560年9月8日〜561年11月24日
在位 1年77日長さは365名中280位
没年
561年11月24日27歳(数え年)267名中長寿順201位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪
先代
  • 廃帝北斉孝昭帝は廃帝の叔父
次代

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 巻6 孝昭帝紀/北史 巻7 齊本紀中/資治通鑑 巻168
即位経路
北齊書 巻6 孝昭帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

高演(こうえん)は北斉(ほくせい)の神武帝(しんぶてい)高歓(こうかん)の第六子で、560年に甥(おい)の高殷(こういん)の輔政(ほせい)の臣を討って実権を握り、高殷(こういん)を廃して自ら位に即いた。翌年に廃した高殷(こういん)を殺し、まもなく病が重くなり落馬もして、弟の高湛(こうたん)に位を譲って世を去った。

即位まで

高演(こうえん)は文宣帝(ぶんせんてい)高(こう)洋(よう)の同母弟で、高殷(こういん)が即位すると太傅(たいふ)・録尚書(ろくしょうしょ)となって朝政を決したが、一月余りで藩邸(はんてい)に退いた。560年、楊愔(ようあん)・燕(えん)子献(しけん)らに権を削られそうになった高演(こうえん)は、長広王(ちょうこうおう)高湛(こうたん)と狩猟にかこつけて謀議した。孝昭帝(こうしょうてい)紀(き)によれば、高演(こうえん)は尚書省(しょうしょしょう)の宴席で楊愔(ようあん)らを捕らえて斬り、廃帝(はいてい)紀(き)はこれを詔を偽っての誅殺(ちゅうさつ)とし、日も違えて記す。高演(こうえん)は高湛(こうたん)に皇太弟(こうたいてい)の位を約したが、即位後は子の高百年(こうひゃくねん)を皇太子に立て、高湛(こうたん)の不満を招いたと高元海(げんかい)伝は記す。婁太后(ろうたいこう)の令で高殷(こういん)が廃されると、高演(こうえん)は晋陽(しんよう)の宣徳(せんとく)殿で即位して大赦し、皇建(こうけん)と改元(かいげん)した。

治世と最期

即位後、高演(こうえん)は大使を四方に遣わして民情を視察させ、自ら軍を率いて庫莫奚(こばくけい)を北に討った。本紀(ほんぎ)は政務に細かい君主として描き、天子なのにかえって役人のようだと直言されて受け入れたと記す。561年、鄴(ぎょう)に天子の気があるという言を受けて、高演(こうえん)は高殷(こういん)の復位を恐れた。高殷(こういん)を殺した次第は書によって違い、北斉(ほくせい)書・北史(ほくし)の孝昭帝(こうしょうてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は毒を拒まれて絞め殺したとし、両書の廃帝(はいてい)の条は高帰彦(こうきげん)を遣わして殺させたとだけ記す。その後、高演(こうえん)は落馬して肋骨(ろっこつ)を折り、本紀(ほんぎ)はその場面を講武(こうぶ)のとき、資治通鑑(しじつがん)は狩猟のときとする。見舞った婁太后(ろうたいこう)は高殷(こういん)の所在を問い、答えない高演(こうえん)に、殺したのかと怒ったという。561年、高演(こうえん)は暴疾にかかったとして、子が幼いので弟の高湛(こうたん)に位を継がせる詔を出し、晋陽宮(しんようきゅう)で崩じた。臨終に高湛(こうたん)へ送った手書で、自分の妻子をよい所に置き、前人を真似るなと頼んだ。本紀(ほんぎ)は内熱に苦しんで危篤となった記事を落馬より前に置くが、資治通鑑(しじつがん)は内熱や危篤を記さず、落馬ののちすぐに死を記す。本紀(ほんぎ)は落馬の負傷を死因と直接結びつけて書いてはいない。

在位中の出来事(4件)

改元560年9月8日元号を「皇建」とする
大赦560年9月8日皇建元年八月壬午、晋陽宣徳殿にて即位した当日に大赦。
親征560年12月库莫奚(庫莫奚、長城以北の遊牧民族)
立后560年12月6日

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

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