北斉(南北朝)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
安徳王高延宗
在位 577年1月18日〜577年1月21日(3日)
安徳王高延宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 北齊書 巻11 文襄六王(安德王延宗傳)
- 即位経路
- 北齊書 巻8 後主紀(附延宗紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
北斉の後主が鄴へ逃げたあと、晋陽で将帥に推されて即位し、北周武帝を一度は追い詰めたが、翌朝に城を破られて捕らえられた。北史の伝は、守并州の命を受けた翌日に尊号を建て、一日おかずに囲まれ、一晩明けて敗れたと記す。
即位まで
文襄帝の第五子で、母は陳氏であり、幼いころは文宣帝に養われた。平陽の役で後主が晋陽へ退こうとすると、高延宗は兵馬を自分に預けるよう願ったが、聞き入れられなかった。後主は高延宗を相国・并州刺史として山西の兵事を任せ、自らは鄴へ逃げた。并州の将帥たちが、天子とならなければ死力を尽くせないと請うと、高延宗はやむを得ず即位し、大赦して徳昌と改元した。
治世と最期
資治通鑑によれば、高延宗は即位してすぐ任城王の高湝に使者を送り、事が収まれば位は叔父に返すと伝えたが、高湝は使者を捕らえて鄴へ送った。高延宗は士卒の手を取って涙を流して励まし、子供や女まで屋根に登って周軍に瓦や石を投げた。晋陽の東門に入った周軍を挟み撃ちにし、北周武帝は側近をほとんど失って辛うじて城を脱した。勝った兵は坊に入って酒に酔いつぶれ、高延宗は軍を立て直せなかった。翌朝、北周武帝が東門を落とすと、高延宗は城北へ走って民家で捕らえられた。周書の宇文憲伝は、逃げたところを追って捕らえたと書く。北周武帝は高延宗の手を取り、両国の天子に怨みはなく百姓のために来ただけだと言って礼遇した。長安で北周武帝が後主に舞わせると、高延宗は悲しみをこらえきれず、たびたび毒を仰ごうとして婢に止められた。のちに北周武帝は、後主と高延宗らが穆提婆の反に呼応したと誣いて死を賜い、高延宗は泣いて何も言わず、山椒を口に詰められて死んだ。周書は後主を誅した年を577年とし、資治通鑑は高延宗の死を同じ年に置くが、北斉書の幼主紀は578年とする。