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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

安(あん)徳王高延宗(とくおうこうえんそう)

在位 577年1月18日〜577年1月21日(3日)

姓高(こう)諱延宗(えんそう)

安徳王高延宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 577年1月18日〜577年1月21日
在位 3日長さは365名中364位
没年
577年11月
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
擁立対立・僭称の皇帝
先代
  • 後主北斉安徳王高延宗は後主の従兄弟
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 巻11 文襄六王(安德王延宗傳)
即位経路
北齊書 巻8 後主紀(附延宗紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

北斉(ほくせい)の後主(こうしゅ)が鄴(ぎょう)へ逃げたあと、晋陽(しんよう)で将帥に推されて即位し、北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)を一度は追い詰めたが、翌朝に城を破られて捕らえられた。北史(ほくし)の伝は、守并州(へいしゅう)の命を受けた翌日に尊号(そんごう)を建て、一日おかずに囲まれ、一晩明けて敗れたと記す。

即位まで

文襄帝(ぶんじょうてい)の第五子で、母は陳氏(ちんし)であり、幼いころは文宣帝(ぶんせんてい)に養われた。平陽(へいよう)の役で後主(こうしゅ)が晋陽(しんよう)へ退こうとすると、高延宗(こうえんそう)は兵馬を自分に預けるよう願ったが、聞き入れられなかった。後主(こうしゅ)は高延宗(こうえんそう)を相国(しょうこく)・并州刺史(へいしゅうしし)として山西(さんせい)の兵事を任せ、自らは鄴(ぎょう)へ逃げた。并州(へいしゅう)の将帥たちが、天子とならなければ死力を尽くせないと請うと、高延宗(こうえんそう)はやむを得ず即位し、大赦して徳昌(とくしょう)と改元(かいげん)した。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、高延宗(こうえんそう)は即位してすぐ任城王(にんじょうおう)の高湝(かい)に使者を送り、事が収まれば位は叔父に返すと伝えたが、高湝(かい)は使者を捕らえて鄴(ぎょう)へ送った。高延宗(こうえんそう)は士卒の手を取って涙を流して励まし、子供や女まで屋根に登って周軍に瓦や石を投げた。晋陽(しんよう)の東門に入った周軍を挟み撃ちにし、北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)は側近をほとんど失って辛うじて城を脱した。勝った兵は坊に入って酒に酔いつぶれ、高延宗(こうえんそう)は軍を立て直せなかった。翌朝、北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)が東門を落とすと、高延宗(こうえんそう)は城北へ走って民家で捕らえられた。周書(しゅうしょ)の宇文憲(うぶんけん)伝は、逃げたところを追って捕らえたと書く。北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)は高延宗(こうえんそう)の手を取り、両国の天子に怨みはなく百姓のために来ただけだと言って礼遇した。長安(ちょうあん)で北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)が後主(こうしゅ)に舞わせると、高延宗(こうえんそう)は悲しみをこらえきれず、たびたび毒を仰ごうとして婢に止められた。のちに北周(ほくしゅう)武帝(ぶてい)は、後主(こうしゅ)と高延宗(こうえんそう)らが穆提婆(ぼくだいば)の反に呼応したと誣(し)いて死を賜い、高延宗(こうえんそう)は泣いて何も言わず、山椒(さんしょう)を口に詰められて死んだ。周書(しゅうしょ)は後主(こうしゅ)を誅(ちゅう)した年を577年とし、資治通鑑(しじつがん)は高延宗(こうえんそう)の死を同じ年に置くが、北斉(ほくせい)書の幼主(ようしゅ)紀(き)は578年とする。

在位中の出来事(3件)

親征577年1月北周軍(晋陽包囲戦)
改元577年1月18日元号を「徳昌」とする
大赦577年1月18日

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

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