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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))第4代分裂期の王朝

武成帝(ぶせいてい)高湛(こうたん)

在位 561年12月3日〜565年6月8日(3年188日)

姓高(こう)諱湛(たん)幼名歩落稽(ほらくけい)廟号世祖(せいそ)

武成帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 561年12月3日〜565年6月8日
在位 3年188日長さは365名中213位タイ
没年
569年1月13日32歳(数え年)267名中長寿順179位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代
  • 後主北斉後主は武成帝の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 巻7 武成帝紀/和士開傳・資治通鑑 巻170
即位経路
北齊書 巻7 武成帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

兄の孝昭帝(こうしょうてい)から位を継いだ北斉(ほくせい)の皇帝で、寵臣(ちょうしん)の和士開(しかい)を重く用い、生前に子の高緯(こうい)へ位を譲って太上(たいじょう)皇帝となった。

即位まで

神武帝(しんぶてい)の第九子で、孝昭帝(こうしょうてい)の同母弟である。北斉(ほくせい)書の高元海(げんかい)伝によれば、孝昭帝(こうしょうてい)は楊愔(ようあん)らを誅(ちゅう)する際、事が成れば皇太弟(こうたいてい)にすると武成帝(ぶせいてい)に約したが、即位すると子の百年を皇太子に立て、武成帝(ぶせいてい)は大いに不満を抱いた。561年、孝昭帝(こうしょうてい)は臨終の遺詔(いしょう)で武成帝(ぶせいてい)に位を伝え、その手書の末に、百年に罪は無いから穏やかに処してほしいと書き添えた。資治通鑑(しじつがん)によれば、武成帝(ぶせいてい)はなお詐りを疑い、親しい者を先にやって棺を開けさせて確かめた。百官に三度勧められて許し、南宮(なんぐう)で即位して大赦し、大寧(たいねい)と改元(かいげん)した。

治世と最期

翌年、平秦王(へいしんおう)の高帰彦(こうきげん)が冀州(きしゅう)に拠って叛(そむ)いたが、段韶(しょう)らに擒(とら)えられ、都の市で斬られた。564年、百年が書いた敕(ちょく)の字を密告されると、武成帝(ぶせいてい)は百年を召して左右に乱打させ、叔父上の奴になりますと命乞いする百年を斬って池に棄てた。和士開(しかい)は武成帝(ぶせいてい)が長広王(ちょうこうおう)だったころから握槊(あくさく)や胡琵琶(こびわ)で親しまれ、即位後は侍中(じちゅう)・右僕射(うぼくや)に進んだ。和士開(しかい)は、帝王もみな灰になるのだから若いうちに思うまま楽しみ、国事は大臣に任せよと説き、武成帝(ぶせいてい)を大いに喜ばせた。565年、天文に王が易わる兆しがあると太史が奏すると、皇太子の高緯(こうい)に位を譲って天統(てんとう)と改元(かいげん)し、自らは太上(たいじょう)皇帝となったが、軍国の大事はなお武成帝(ぶせいてい)に奏聞(そうもん)された。北斉(ほくせい)書の本紀(ほんぎ)はこの譲位に和士開(しかい)の名を出さないが、祖珽(てい)伝は、祖珽(てい)が和士開(しかい)に策を授け、和士開(しかい)が承諾して譲位に至ったとする。もとから気疾(きしつ)があって飲酒で発作を起こしていたが、569年に鄴宮(ぎょうきゅう)で崩じた。和士開(しかい)伝によれば、武成帝(ぶせいてい)は病床で和士開(しかい)の手を握って後事を託し、わたしを裏切るなと言って息絶えた。

在位中の出来事(9件)

改元561年12月3日元号を「大寧」とする
大赦561年12月3日即位に伴う大赦。
皇太子廃立561年12月5日即位直後、先代孝昭帝の皇太子であった百年(高百年)を皇太子の地位から廃し、楽陵郡王に降封した。
改元562年元号を「河清」とする
大赦562年皇后胡氏の冊立・皇太子緯の立太子に伴う大赦。
立后562年妃胡氏を皇后に冊立。
被反乱562年高帰彦(平秦王)冀州の乱
大赦564年律令頒布に伴う大赦。
親征565年1月20日〜565年2月8日北周軍(尉迟迥等、洛陽包囲軍)

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

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