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唐(とう)第3代統一王朝

高(こう)宗(そう)李治(りち)

在位 649年7月15日〜683年12月27日(34年173日)

姓李(り)諱治(ち)字為善(いぜん)幼名雉奴(ちど)

高宗の人物データ

生年
628年7月
在位
  • 649年7月15日〜683年12月27日
在位 34年173日22歳で即位(数え年)・長さは365名中17位
没年
683年12月27日56歳(数え年)267名中長寿順51位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 太宗唐高宗は太宗の子
次代
  • 中宗唐中宗は高宗の子
目立つ記録
  • 改元14回(327名中1位タイ)
  • 皇太子廃立2回(27名中2位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五(高宗下、弘道元年十二月条)
即位経路
旧唐書 巻四(高宗上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

武氏(ぶし)を皇后に立て、のちに皇后と並んで二聖(にせい)と呼ばれた唐の皇帝である。旧唐書(くとうじょ)の史臣(ししん)は、即位後に後宮に心を奪われて国の基を怠り、皇后が害され元舅(げんきゅう)が冤罪(えんざい)を負ったと評している。

即位まで

太宗(たいそう)の第9子で、母は文徳皇后(ぶんとくこうごう)長孫氏(そんし)である。643年に皇太子の承乾(しょうけん)が廃され、魏王(ぎおう)泰も退けられると、太宗(たいそう)は長孫無忌(ちょうそんむき)らと議して晋王(しんおう)を皇太子に立てた。資治通鑑(しじつがん)は、太宗(たいそう)が一度は魏王(ぎおう)泰を立てると約束し、長孫無忌(ちょうそんむき)が晋王(しんおう)を強く推したという経緯を書くが、旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)には無い。649年に太宗(たいそう)が没して即位した。

治世と最期

655年、反対した褚遂良(ちょすいりょう)を左遷(させん)し、王皇后(こうごう)を廃して武昭儀(しょうぎ)を皇后に立てた。資治通鑑(しじつがん)は、昭儀(しょうぎ)が自分の生んだ娘を手にかけて王皇后(こうごう)の仕業に見せたと書くが、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)にこの話は無い。旧唐書(くとうじょ)の后妃伝(こうひでん)は、廃された王皇后(こうごう)の死について、同じ伝の中で絞め殺されたとも、手足を断たれて酒甕(しゅおう)に投げ込まれたとも書いている。上官(じょうかん)儀を誅(ちゅう)してからは皇后が御座の後ろに簾(すだれ)を垂れて政治に加わり、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は、高(こう)宗(そう)が風疹(ふうしん)で朝政を聴けず政事はすべて皇后が決したとも書く。675年に皇太子の弘(こう)が没すると、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は薨(こう)じたとだけ書き、新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)は天后(てんこう)が殺したと書く。資治通鑑(しじつがん)の考異(こうい)は、毒殺とする書と言わない書があって事情が明らかでないので、本文では時の人が天后(てんこう)の毒殺を疑ったとだけ書いたと説明している。680年には皇太子の賢を廃して庶人(しょじん)とし、英王(えいおう)哲を皇太子に立てた。683年、改元(かいげん)の赦を宣したその夜に貞観殿(じょうがんでん)で没し、遺詔(いしょう)は決まらない軍国の大事は天后(てんこう)の処分に従えとした。

在位中の出来事(40件)

大赦649年7月15日
改元650年元号を「永徽」とする
立后650年妃王氏を皇后に立てる。
被反乱650年〜658年阿史那賀魯(西突厥)の反乱
大赦652年陳王忠を皇太子に立てるのに伴い大赦天下。
被反乱653年陳碩貞の乱
大赦655年王皇后を廃して庶人とし武昭儀を皇后に立てるのに伴い大赦天下。
立后655年王皇后を廃して庶人とし、武昭儀を皇后に立てる。
改元656年元号を「顕慶」とする
大赦656年顕慶に改元、大赦。
残り30件を表示
皇太子廃立656年皇太子忠を廃して梁王とし、代王弘を皇太子に立てる。
大赦659年皇太子(弘)加元服につき大赦天下。
改元661年元号を「龍朔」とする
大赦662年東宮誕育満月(皇太子弘に子誕生)につき大赦天下。
改元664年元号を「麟徳」とする
改元666年元号を「乾封」とする
大赦666年泰山封禅後、乾封に改元し大赦天下、酺七日。
改元668年元号を「総章」とする
大赦668年総章に改元し大赦。
改元670年元号を「咸亨」とする
大赦670年咸亨に改元し大赦天下。
改元674年元号を「上元」とする
大赦674年
大赦675年皇太子弘死去後、雍王賢を皇太子に立てるのに伴い大赦。
改元676年元号を「儀鳳」とする
大赦676年儀鳳に改元し大赦。
大赦678年
改元679年元号を「調露」とする
大赦679年調露に改元し大赦天下。
被反乱679年〜681年単于大都護府突厥反乱(阿史德温傅・阿史那泥熟匐・阿史那伏念)
改元680年元号を「永隆」とする
大赦680年皇太子賢を廃して庶人とし英王哲を皇太子に立て、永隆に改元。
皇太子廃立680年皇太子賢を廃して庶人とし別所に幽閉、翌日英王哲を皇太子に立てる。
改元681年元号を「開耀」とする
改元682年元号を「永淳」とする
大赦682年太子(哲)に皇孫誕生・満月につき大赦、永淳に改元。
被反乱682年阿史那骨咄禄の反乱
被反乱683年綏州稽胡白鉄余の乱
改元683年12月27日元号を「弘道」とする
大赦683年12月27日弘道に改元し崩御当日に赦書を宣す。

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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