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武宗の肖像

唐(とう)第18代統一王朝

武宗(ぶそう)李炎(りえん)

在位 840年2月10日〜846年4月22日(6年73日)

姓李(り)諱炎(えん)

武宗の人物データ

生年
814年7月2日
在位
  • 840年2月10日〜846年4月22日
在位 6年73日27歳で即位(数え年)・長さは365名中169位
没年
846年4月22日33歳(数え年)267名中長寿順174位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 文宗唐武宗は文宗の弟
次代
  • 宣宗唐宣宗は武宗の叔父

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 本紀第十八上(武宗)
即位経路
旧唐書 本紀第十八上(武宗)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

道士の説を信じて会昌(かいしょう)の廃仏を行い、宰相の李徳裕(りとくゆう)を重く用いた唐の皇帝である。

即位まで

穆宗(ぼくそう)の第五子で、母は宣懿皇后(せんいこうごう)韋氏(いし)である。821年に潁王(えいおう)に封じられ、もとの名は瀍(てん)といった。840年に文宗(ぶんそう)が急病となると、宰相の李(り)珏(かく)らは皇太子の成美に国を預けようとしたが、神策軍(しんさくぐん)の中尉の仇士良(しりょう)・魚弘志(こうし)が詔を偽って潁王(えいおう)を迎え、皇太弟(こうたいてい)に立てた。旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)は文宗(ぶんそう)が没した日に柩(ひつぎ)の前で即位したとし、資治通鑑(しじつがん)は即位を文宗(ぶんそう)の死の10日後に置く。成美と安王(あんおう)溶、楊(よう)賢妃(けんぴ)はこの即位の前後に殺された。

治世と最期

即位の年に李徳裕(りとくゆう)を淮南(わいなん)から呼び戻して宰相とした。843年には石雄が殺胡山(さつこざん)で回鶻(かいこつ)を大破し、烏介(うかい)可汗(かがん)は傷を負って逃れた。同じ年、昭義(しょうぎ)の劉(りゅう)稹(しん)を討つかどうかで百官が慎重論を唱えるなか、李徳裕(りとくゆう)だけが討伐を主張し、武宗(ぶそう)はこれに従った。翌年、劉(りゅう)稹(しん)は部下に斬られ、沢・潞(ろ)など五州が平定された。844年には、擁立の功臣だった仇士良(しりょう)の官爵を死後に削り、家財を没収した。神仙を志して道士の趙帰真(ちょうきしん)を師とし、仏教は中国(ちゅうごく)の教えではないという帰真(きしん)の説を信じた。845年、天下の寺4600余所を壊し、僧尼26万余人を還俗させた。旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は、方士(ほうし)の薬を服して喜怒が常を失い、病が重くなって十日も口がきけなかったと記し、資治通鑑(しじつがん)も金丹を服して性が荒くなったと書く。新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)は薬に触れない。846年、名を炎と改めたが病は癒えず、宦官(かんがん)が叔父の光王(こうおう)を皇太叔(こうたいしゅく)に立て、武宗(ぶそう)は没した。

在位中の出来事(11件)

大赦840年
被反乱840年9月易定軍乱
改元841年元号を「会昌」とする
大赦841年
被反乱841年幽州軍乱
大赦842年
被反乱842年嵐州田満川の乱
被反乱843年〜844年昭義鎮劉稹の乱
被反乱844年太原楊弁の乱
被反乱844年党項の反乱
残り1件を表示
大赦845年

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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