
唐第18代統一王朝
武宗李炎
在位 840年2月10日〜846年4月22日(6年73日)
姓李諱炎
武宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十八上(武宗)
- 即位経路
- 旧唐書 本紀第十八上(武宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
道士の説を信じて会昌の廃仏を行い、宰相の李徳裕を重く用いた唐の皇帝である。
即位まで
穆宗の第五子で、母は宣懿皇后韋氏である。821年に潁王に封じられ、もとの名は瀍といった。840年に文宗が急病となると、宰相の李珏らは皇太子の成美に国を預けようとしたが、神策軍の中尉の仇士良・魚弘志が詔を偽って潁王を迎え、皇太弟に立てた。旧唐書と新唐書の本紀は文宗が没した日に柩の前で即位したとし、資治通鑑は即位を文宗の死の10日後に置く。成美と安王溶、楊賢妃はこの即位の前後に殺された。
治世と最期
即位の年に李徳裕を淮南から呼び戻して宰相とした。843年には石雄が殺胡山で回鶻を大破し、烏介可汗は傷を負って逃れた。同じ年、昭義の劉稹を討つかどうかで百官が慎重論を唱えるなか、李徳裕だけが討伐を主張し、武宗はこれに従った。翌年、劉稹は部下に斬られ、沢・潞など五州が平定された。844年には、擁立の功臣だった仇士良の官爵を死後に削り、家財を没収した。神仙を志して道士の趙帰真を師とし、仏教は中国の教えではないという帰真の説を信じた。845年、天下の寺4600余所を壊し、僧尼26万余人を還俗させた。旧唐書の本紀は、方士の薬を服して喜怒が常を失い、病が重くなって十日も口がきけなかったと記し、資治通鑑も金丹を服して性が荒くなったと書く。新唐書の本紀は薬に触れない。846年、名を炎と改めたが病は癒えず、宦官が叔父の光王を皇太叔に立て、武宗は没した。
在位中の出来事(11件)
大赦840年
被反乱840年9月易定軍乱
改元841年元号を「会昌」とする
大赦841年
被反乱841年幽州軍乱
大赦842年
被反乱842年嵐州田満川の乱
被反乱843年〜844年昭義鎮劉稹の乱
被反乱844年太原楊弁の乱
被反乱844年党項の反乱
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大赦845年
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑