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中宗の肖像

唐(とう)第4・6代統一王朝

中宗(ちゅうそう)李(り)顕(けん)

在位 684年 / 705–710年(5年185日)

姓李(り)諱顕(けん)

中宗の人物データ

生年
656年11月26日
在位
  • 1度目684年1月3日〜684年2月26日
  • 復位705年2月23日〜710年7月3日
在位 5年185日長さは365名中178位
没年
710年7月3日55歳(数え年)267名中長寿順56位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲のちに復位
先代
  • 高宗唐中宗は高宗の子
  • 武則天周復位による継承・中宗は武則天の子
次代
  • 睿宗唐睿宗は中宗の弟
  • 殤帝唐殤帝は中宗の子
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻七(中宗睿宗、景龍四年六月条)/新唐書 巻七十六(后妃上・中宗韋庶人伝)
即位経路
旧唐書 巻七(中宗睿宗)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

中宗(ちゅうそう)(李(り)顕(けん))は高(こう)宗(そう)の第七子で、母は武則天(ぶそくてん)である。即位してまもなく母に廃されて地方に幽閉され、二十年余りのちに張柬之(かんし)らの政変で復位した。復位後は韋(い)后と安楽公(あんらくこう)主が力を強め、710年に毒殺されたと伝わる。

即位まで

高(こう)宗(そう)が崩じると、遺詔(いしょう)により皇太子の李(り)顕(けん)が柩前(きゅうぜん)で即位し、皇太后の武則天(ぶそくてん)が臨朝称制(りんちょうしょうせい)して嗣聖(しせい)と改元(かいげん)した。資治通鑑(しじつがん)によれば、皇后の父の韋(い)玄貞(げんてい)を侍中(じちゅう)にしようとして裴炎(はいえん)に争われた中宗(ちゅうそう)は、天下を韋(い)玄貞(げんてい)に与えても何が悪いかと怒り、裴炎(はいえん)はこれを武則天(ぶそくてん)に告げた。684年、武則天(ぶそくてん)は百官を集めて中宗(ちゅうそう)を廃し、廬陵王(ろりょうおう)として均州(きんしゅう)、さらに房陵(ぼうりょう)へ移した。旧唐書(くとうじょ)の中宗本紀(ちゅうそうほんぎ)は、廃位の理由となったこの発言を記していない。新唐書(しんとうじょ)の后妃伝(こうひでん)によれば、房陵(ぼうりょう)では使者が来るたびに中宗(ちゅうそう)が恐れて自殺しようとし、韋(い)后がこれを止めた。旧唐書(くとうじょ)によれば698年に東都へ召されて再び皇太子に立てられ、新唐書(しんとうじょ)の本紀(ほんぎ)はこれを翌年とする。705年に張柬之(かんし)らが羽林兵(うりんへい)を率いて張易之(ちょうえきし)・張昌宗(しょうそう)を誅(ちゅう)すると、武則天(ぶそくてん)から位を伝えられて復位した。

治世と最期

復位した年に国号を唐に戻し、韋氏(いし)を皇后に立てた。707年には皇太子の李(り)重俊(ちょうしゅん)が武三思(ぶさんし)父子を殺して宮中に攻め入ったが、中宗(ちゅうそう)が玄武楼(げんぶろう)から諭すと兵は散った。710年、燕(えん)欽融(きんゆう)が韋(い)后の政への干渉と安楽公(あんらくこう)主らの企てを上書すると撲殺された。これを命じたのを旧唐書(くとうじょ)本紀(ほんぎ)は中宗(ちゅうそう)自身とし、資治通鑑(しじつがん)は宗楚客(そかく)が制を偽って殺させたとする。同じ年、中宗(ちゅうそう)は神龍殿(しんりゅうでん)で急死し、韋(い)后は喪を秘して自ら政務をとった。旧唐書(くとうじょ)本紀(ほんぎ)は、皇太女(こうたいじょ)に立つことを望む安楽公(あんらくこう)主が韋(い)后と謀って毒を進めたとし、資治通鑑(しじつがん)は医術の馬秦客(しんかく)らも加わって餅餤(へいたん)に毒を入れたとする。新唐書(しんとうじょ)は中宗(ちゅうそう)紀(き)では韋(い)后らが反したのちに皇帝が崩じたと書いて毒の語を用いないが、睿宗(えいそう)紀(き)では韋(い)皇后(こうごう)が中宗(ちゅうそう)を弑(しい)したと書く。旧唐書(くとうじょ)の韋(い)庶人(しょじん)伝は毒による急死と地の文で書いたうえで、罪を馬秦客(しんかく)と安楽公(あんらくこう)主に帰したのは議者だと伝聞の形で記す。

在位中の出来事(18件)

改元684年1月元号を「嗣聖」とする
大赦705年2月23日【第2次在位】神龍元年正月丙午、通天宮にて即位、大赦天下(張易之党与を除く)。
大赦705年3月13日【第2次在位】神龍元年二月甲子、韋氏を皇后に立て、大赦天下。
立后705年3月13日【第2次在位・復位】神龍元年二月甲子、中宗復位後に韋氏を改めて皇后に立てる(廃后後の復位)。
大赦705年9月27日【第2次在位】神龍元年九月壬午、明堂にて親祀、大赦天下。
大赦705年11月26日【第2次在位】神龍元年十一月壬午、太廟に尊号を告げ、大赦天下。
大赦706年【第2次在位】神龍二年十一月乙巳、大赦天下(東都からの還京に伴う)。
遷都706年洛陽(神都/東都) → 長安(西京・京師)
改元707年元号を「景龍」とする
大赦707年【第2次在位】神龍三年七月癸卯、皇太子李重俊の変(武三思誅殺未遂・重俊敗死)の後、大赦天下。
残り8件を表示
大赦707年
被反乱707年景龍政変(皇太子李重俊の変)
被反乱707年姚州叛蛮の乱
大赦708年【第2次在位】景龍二年二月辛未、皇后の衣箱の裙に五色雲が現れたとの奏上を受け大赦天下。
大赦708年【第2次在位】景龍二年二月乙酉、皇后の服に慶雲の瑞ありとして大赦天下(内外五品以上の母・妻に邑号加授等)。
大赦709年【第2次在位】景龍二年十一月己卯、安楽公主降嫁の礼を終えて大赦天下。
大赦709年【第2次在位】景龍三年十一月乙丑、南郊にて親祀(皇后が亜献)、大赦天下。
立后日付不詳【第1次在位】嗣聖初(684年、中宗の第1次即位直後)、韋氏を皇后に立てる。

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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