
唐第4・6代統一王朝
中宗李顕
在位 684年 / 705–710年(5年185日)
中宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻七(中宗睿宗、景龍四年六月条)/新唐書 巻七十六(后妃上・中宗韋庶人伝)
- 即位経路
- 旧唐書 巻七(中宗睿宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
中宗(李顕)は高宗の第七子で、母は武則天である。即位してまもなく母に廃されて地方に幽閉され、二十年余りのちに張柬之らの政変で復位した。復位後は韋后と安楽公主が力を強め、710年に毒殺されたと伝わる。
即位まで
高宗が崩じると、遺詔により皇太子の李顕が柩前で即位し、皇太后の武則天が臨朝称制して嗣聖と改元した。資治通鑑によれば、皇后の父の韋玄貞を侍中にしようとして裴炎に争われた中宗は、天下を韋玄貞に与えても何が悪いかと怒り、裴炎はこれを武則天に告げた。684年、武則天は百官を集めて中宗を廃し、廬陵王として均州、さらに房陵へ移した。旧唐書の中宗本紀は、廃位の理由となったこの発言を記していない。新唐書の后妃伝によれば、房陵では使者が来るたびに中宗が恐れて自殺しようとし、韋后がこれを止めた。旧唐書によれば698年に東都へ召されて再び皇太子に立てられ、新唐書の本紀はこれを翌年とする。705年に張柬之らが羽林兵を率いて張易之・張昌宗を誅すると、武則天から位を伝えられて復位した。
治世と最期
復位した年に国号を唐に戻し、韋氏を皇后に立てた。707年には皇太子の李重俊が武三思父子を殺して宮中に攻め入ったが、中宗が玄武楼から諭すと兵は散った。710年、燕欽融が韋后の政への干渉と安楽公主らの企てを上書すると撲殺された。これを命じたのを旧唐書本紀は中宗自身とし、資治通鑑は宗楚客が制を偽って殺させたとする。同じ年、中宗は神龍殿で急死し、韋后は喪を秘して自ら政務をとった。旧唐書本紀は、皇太女に立つことを望む安楽公主が韋后と謀って毒を進めたとし、資治通鑑は医術の馬秦客らも加わって餅餤に毒を入れたとする。新唐書は中宗紀では韋后らが反したのちに皇帝が崩じたと書いて毒の語を用いないが、睿宗紀では韋皇后が中宗を弑したと書く。旧唐書の韋庶人伝は毒による急死と地の文で書いたうえで、罪を馬秦客と安楽公主に帰したのは議者だと伝聞の形で記す。
在位中の出来事(18件)
残り8件を表示
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑