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唐(とう)統一王朝対立・僭称の皇帝

李裕(りゆう)

在位 900年12月4日〜901年1月23日(50日)

姓李(り)諱裕(ゆう)別称李縝(りしん)

李裕の人物データ

生年
不詳
在位
  • 900年12月4日〜901年1月23日
在位 50日長さは365名中348位
没年
905年3月
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立対立・僭称の皇帝
先代
  • 昭宗唐李裕は昭宗の子
次代
  • 昭宗唐復位による継承・昭宗は李裕の父

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻二十上(昭宗)/新唐書 巻82(十一宗諸子・徳王裕伝)
即位経路
旧唐書 巻二十上(昭宗)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李裕(りゆう)は唐の昭宗(しょうそう)の長子で、900年に宦官(かんがん)の劉(りゅう)季述(きじゅつ)と王仲先(ちゅうせん)が昭宗(しょうそう)を幽閉して皇帝に立てた。昭宗(しょうそう)が復位すると徳王(とくおう)に降され、905年に蔣(しょう)玄暉(げんき)に殺された。

即位まで

旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は、徳王(とくおう)李裕(りゆう)は昭宗(しょうそう)の長子で、891年に王に封じられ、897年に皇太子に冊立(さくりつ)されたと記す。新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)は、昭宗(しょうそう)が華州(かしゅう)にいた897年に、韓建が諸王を殺したのちに李裕(りゆう)を皇太子に立てるよう請うたとする。資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は、勤王録(きんのうろく)の記す立太子の日を取らず、実録(じつろく)に従うと注する。900年、劉(りゅう)季述(きじゅつ)と王仲先(ちゅうせん)が昭宗(しょうそう)を廃して東内(とうない)の問安宮(もんあんきゅう)に幽閉し、皇太子の監国(かんこく)を請うた。資治通鑑(しじつがん)は、劉(りゅう)季述(きじゅつ)らが詔を偽って太子に位を嗣がせ、名を縝(しん)と改めさせ、昭宗(しょうそう)を太上皇(たいじょうこう)としたと記す。

治世と最期

太子が即位してからの数十日は、藩鎮(はんちん)からの上表(じょうひょう)がほとんど届かなかった。901年、昭宗(しょうそう)に仕える孫徳昭(とくしょう)・周承誨(しょうかい)・董(とう)彦弼(げんひつ)が兵を率いて劉(りゅう)季述(きじゅつ)と王仲先(ちゅうせん)を攻め、王仲先(ちゅうせん)を殺した。旧唐書(くとうじょ)本紀(ほんぎ)と資治通鑑(しじつがん)は、この反正(はんせい)の日を一日ずらして記す。昭宗(しょうそう)は李裕(りゆう)を徳王(とくおう)に降した。資治通鑑(しじつがん)は、李裕(りゆう)は幼く、悪人に立てられたので罪は無いと昭宗(しょうそう)が言ったと記し、宦官(かんがん)が太子を匿った先を左軍(さぐん)とする。新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)は右軍(うぐん)とする。905年、資治通鑑(しじつがん)は、朱全忠(しゅぜんちゅう)が蔣(しょう)玄暉(げんき)を使って徳王(とくおう)李裕(りゆう)ら九王を九曲池(きゅうきょくち)に招かせ、酔ったところを縊(くび)り殺して池に投げ入れさせたと記す。旧唐書(くとうじょ)本紀(ほんぎ)もこれを九王の絞殺とし、旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は六王(ろくおう)とする。新唐書(しんとうじょ)の昭宗(しょうそう)紀(き)と哀帝(あいてい)紀(き)には、九曲池(きゅうきょくち)の殺害を記す条が無い。

在位中の出来事(1件)

被反乱901年1月22日孫徳昭の反正(劉季述傀儡政権打倒のクーデター)

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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