唐統一王朝対立・僭称の皇帝
李裕
在位 900年12月4日〜901年1月23日(50日)
姓李諱裕別称李縝
李裕の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)/新唐書 巻82(十一宗諸子・徳王裕伝)
- 即位経路
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李裕は唐の昭宗の長子で、900年に宦官の劉季述と王仲先が昭宗を幽閉して皇帝に立てた。昭宗が復位すると徳王に降され、905年に蔣玄暉に殺された。
即位まで
旧唐書の列伝は、徳王李裕は昭宗の長子で、891年に王に封じられ、897年に皇太子に冊立されたと記す。新唐書の列伝は、昭宗が華州にいた897年に、韓建が諸王を殺したのちに李裕を皇太子に立てるよう請うたとする。資治通鑑考異は、勤王録の記す立太子の日を取らず、実録に従うと注する。900年、劉季述と王仲先が昭宗を廃して東内の問安宮に幽閉し、皇太子の監国を請うた。資治通鑑は、劉季述らが詔を偽って太子に位を嗣がせ、名を縝と改めさせ、昭宗を太上皇としたと記す。
治世と最期
太子が即位してからの数十日は、藩鎮からの上表がほとんど届かなかった。901年、昭宗に仕える孫徳昭・周承誨・董彦弼が兵を率いて劉季述と王仲先を攻め、王仲先を殺した。旧唐書本紀と資治通鑑は、この反正の日を一日ずらして記す。昭宗は李裕を徳王に降した。資治通鑑は、李裕は幼く、悪人に立てられたので罪は無いと昭宗が言ったと記し、宦官が太子を匿った先を左軍とする。新唐書の列伝は右軍とする。905年、資治通鑑は、朱全忠が蔣玄暉を使って徳王李裕ら九王を九曲池に招かせ、酔ったところを縊り殺して池に投げ入れさせたと記す。旧唐書本紀もこれを九王の絞殺とし、旧唐書の列伝は六王とする。新唐書の昭宗紀と哀帝紀には、九曲池の殺害を記す条が無い。
在位中の出来事(1件)
被反乱901年1月22日孫徳昭の反正(劉季述傀儡政権打倒のクーデター)
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑