
唐第19代統一王朝
宣宗李忱
在位 846年4月22日〜859年9月7日(13年141日)
姓李諱忱
宣宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十八下(宣宗)/資治通鑑 巻249(唐紀65・大中十三年)
- 即位経路
- 新唐書 本紀第八(武宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宦官に擁立されて武宗の跡を継ぎ、吐蕃から河・湟の地を取り戻した唐の皇帝である。旧唐書の史臣は大中の十余年を称え、資治通鑑は小太宗と呼ばれたと書くが、新唐書の賛は、察を明として仁恩が無く、これ以後唐は衰えたと評する。
即位まで
憲宗の第13子で、821年に光王に封じられ、当時の名は怡といった。幼いころは知恵が足りないと思われ、長じてからもますます才を隠して口をきかず、文宗や武宗は宴席で無理に物を言わせてからかい、武宗は特に礼を欠いたと旧唐書の本紀は記す。846年に武宗の病が重くなると皇太叔に立てられ、柩の前で即位した。旧唐書の本紀はこれを遺詔によるものとして宦官の名を出さないが、新唐書の本紀は神策軍の中尉の馬元贄が立てたとし、資治通鑑は宦官たちが禁中でひそかに策を定めたと書く。
治世と最期
即位の直後に李徳裕を荊南へ出し、旧唐書の本紀によれば849年には崖州へ貶した。849年、吐蕃の論恐熱が三州と七関をもって帰順し、制は百年近く失われていた河・湟の地の回復を称えた。851年には沙州の張義潮が十一州をもって唐に帰した。858年に羅浮山人の軒轅集を禁中に召し、長生を得られるかを問うた。859年に病んで朝に出られなくなり、鄆王を皇太子に立てて没した。資治通鑑は、医官や道士の薬を服して背に腫れ物ができたとし、のちに薬を進めた3人は誅されたと書くが、旧唐書と新唐書の本紀にこの記述は無い。資治通鑑によれば、宣宗は寵愛する夔王を枢密使の王帰長らに託していたが、王宗実が寝殿に入ったときにはすでに没しており、王帰長らを退けて鄆王を迎えた。
在位中の出来事(10件)
大赦846年6月2日即位直後の大赦。
改元847年元号を「大中」とする
大赦847年郊祀(圜丘祭祀)に伴う大赦。
大赦848年群臣による尊号奉呈(聖敬文思和武光孝皇帝)に伴う大赦。
被反乱849年幽州軍乱(留後張直方追放事件)
大赦850年順宗・憲宗への追尊(二聖追尊)に伴う大赦天下。
大赦853年郊祀(南郊)に伴う大赦。
被反乱858年洪州賊毛合の乱
被反乱858年宣州賊康全大の乱
大赦859年2月7日宣宗最後の年の年始大赦。
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑