
唐第10代統一王朝
粛宗李亨
在位 756年8月12日〜762年5月16日(5年278日)
粛宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻十(粛宗紀)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十(粛宗紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李亨は唐の玄宗の第三子で、安史の乱のさなかの756年、玄宗の譲位を待たずに霊武で帝位に即いた。757年に長安と洛陽を取り戻したが乱は収まらず、762年、病が重くなる中で張皇后と李輔国が争い、そのさなかに崩じた。
即位まで
李亨は母を元献皇后楊氏とし、711年に生まれた。皇太子のとき安禄山の反相を玄宗に密奏していたが、755年に安禄山は兵を挙げた。756年、蜀へ向かう玄宗は馬嵬で楊国忠が誅されたのち、李亨を後に残して百姓を宣諭させ、百姓は太子に従って長安を取り戻したいと請うた。裴冕・杜鴻漸らに即位を勧められた李亨はやむなく従い、霊武で即位して玄宗を上皇天帝と尊んだ。成都に着いた玄宗はあとから位を譲り、冊書を霊武へ送った。
治世と最期
757年、元帥の広平王が香積寺の戦いのあと長安を収め、続いて洛陽に入り、李亨も長安に戻った。758年、蜀から戻った玄宗を、李亨は望賢宮に出迎えて足を捧げて涙した。同じ年に淑妃張氏を皇后に立てた。759年、史思明が燕王を称し、相州を囲んだ郭子儀ら九節度使の軍を破って洛陽を陥れた。760年、玄宗は興慶宮から西内に移されたが、旧唐書の粛宗紀は誰が移したかを書かず、資治通鑑は李輔国が李亨の言葉と偽って連れ出したとする。旧唐書の后妃伝は、張皇后が李輔国とともに禁中で権を握ったと記す。761年、李光弼が史思明に大敗したが、同じ年に史思明は子の史朝義に殺された。762年、病んでいた李亨は玄宗の崩御を聞いて病が重くなり、長生殿で崩じた。このころ張皇后は越王李係を宮中に引き入れ、旧唐書の代宗紀はそれを皇太子を廃する企てとし、新唐書の代宗紀と資治通鑑は李輔国を除く企てとする。李輔国・程元振が兵で越王を捕らえて張皇后を幽閉した点は諸書で一致し、旧唐書の粛宗紀はこの一件を書かない。新唐書は越王が殺されたその夜に李亨が崩じたとし、資治通鑑は崩御のあとで張皇后らが殺されたとして、順序が分かれる。
在位中の出来事(17件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑