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太祖の肖像

後周(こうしゅう)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

太祖(たいそ)郭威(かくい)

在位 951年2月13日〜954年2月22日(3年10日)

姓郭(かく)諱威(い)字文仲(ぶんちゅう)

太祖の人物データ

生年
904年9月10日
在位
  • 951年2月13日〜954年2月22日
在位 3年10日48歳で即位(数え年)・長さは365名中221位
没年
954年2月22日51歳(数え年)267名中長寿順79位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 隠帝後漢・五代十国太祖と隠帝に血縁はない
次代
  • 世宗後周世宗は太祖の養子

出典(死因・即位経路)

死因
旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)
即位経路
旧五代史 巻一百十(周書・太祖紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

郭威(かくい)は邢州(けいしゅう)堯山(ぎょうざん)の人で、後漢(ごかん)に仕えたが、澶州(せんしゅう)で将士に推されたのち、951年に開封で即位して後周(こうしゅう)を建てた。954年に崩じ、晋王(しんおう)の柴栄(さいえい)が柩(ひつぎ)の前で即位した。

即位まで

旧五代史(きゅうごだいし)は、郭威(かくい)はもと常氏(じょうし)の子で、幼いとき母に随って郭氏(かくし)に再婚し、郭の姓を冒したという異説も載せる。郭威(かくい)は後漢(ごかん)の高祖(こうそ)の即位を勧めた一人で、高祖(こうそ)が危篤になると顧命(こめい)を受け、隠帝(いんてい)が即位すると枢密使(すうみつし)になった。旧五代史(きゅうごだいし)は、隠帝(いんてい)が郭允明(いんめい)に北郊で弑(しい)されたと記して郭威(かくい)を行為者としない。資治通鑑(しじつがん)は乱兵に弑(しい)されたとだけ書き、考異(こうい)は郭威(かくい)の兵が殺して允明(いんめい)に罪を着せたのだろうという劉(りゅう)恕(じょ)の見方を引く。郭威(かくい)は嗣君(しくん)の擁立を請い、劉(りゅう)贇(いん)を迎えることになったが、契丹(きったん)入寇(にゅうこう)の急報があり、太后が郭威(かくい)に北征を命じた。澶州(せんしゅう)で将士が駅に押し寄せ、郭威(かくい)に天子になるよう請い、黄旗(こうき)を裂いて郭威(かくい)の身にかけた。漢の太后が符宝(ふほう)を授け、郭威(かくい)は崇元殿(すうげんでん)で即位し、国号を周、乾祐(けんゆう)四年を広順(こうじゅん)元年とした。廃された劉(りゅう)贇(いん)の最期を、旧五代史(きゅうごだいし)は殂(そ)とだけ記し、新五代史(しんごだいし)は王峻(しゅん)が郭崇に迎えさせて殺したと記す。新五代史(しんごだいし)は、魏(ぎ)仁浦(じんぽ)が郭威(かくい)に反を勧め、詔書(しょうしょ)を書き換えて将校を激怒させるよう教えたと記すが、旧五代史(きゅうごだいし)の太祖(たいそ)紀(き)にその記述は無い。

治世と最期

即位の翌年、慕容(ぼよう)彦超(げんちょう)が兗州(えんしゅう)に拠って反した。郭威(かくい)は京師を発して兗州(えんしゅう)を収復し、彦超(げんちょう)を斬ってその一族を夷した。資治通鑑(しじつがん)は、彦超(げんちょう)は妻とともに井戸に身を投げて死んだと記し、旧五代史(きゅうごだいし)の斬という書きぶりと異なる。953年、郭威(かくい)は民間にいて営田(えいでん)の弊を知っていたので、官有の荘田(しょうでん)およそ一万を佃戸(でんこ)に永業(えいぎょう)として分け与えた。954年、鄴都留守(ぎょうとりゅうしゅ)の王殷(いん)は官爵を削られて長流(ちょうりゅう)され、まもなく賜死(しし)された。その後、病が重くなり、郊廟(こうびょう)の礼は無理をして行ったにすぎなかった。郭威(かくい)は滋徳殿(じとくでん)で崩じた。

在位中の出来事(7件)

被反乱951年2月〜951年3月徐州拒命の乱
改元951年2月13日元号を「広順」とする
大赦951年2月13日即位に伴う大赦(改元同時)。
親征952年慕容彦超(兖州節度使の反乱)
被反乱952年兖州節度使慕容彦超の反乱
改元954年2月6日元号を「顕徳」とする
大赦954年2月6日南郊祭祀に伴う大赦(改元同時)。

後周の歴代皇帝

3名の一覧

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