
後周(五代十国)第1代分裂期の王朝
太祖郭威
在位 951年2月13日〜954年2月22日(3年10日)
太祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻一百十三(周書・太祖紀四)
- 即位経路
- 旧五代史 巻一百十(周書・太祖紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
郭威は邢州堯山の人で、後漢に仕えたが、澶州で将士に推されたのち、951年に開封で即位して後周を建てた。954年に崩じ、晋王の柴栄が柩の前で即位した。
即位まで
旧五代史は、郭威はもと常氏の子で、幼いとき母に随って郭氏に再婚し、郭の姓を冒したという異説も載せる。郭威は後漢の高祖の即位を勧めた一人で、高祖が危篤になると顧命を受け、隠帝が即位すると枢密使になった。旧五代史は、隠帝が郭允明に北郊で弑されたと記して郭威を行為者としない。資治通鑑は乱兵に弑されたとだけ書き、考異は郭威の兵が殺して允明に罪を着せたのだろうという劉恕の見方を引く。郭威は嗣君の擁立を請い、劉贇を迎えることになったが、契丹入寇の急報があり、太后が郭威に北征を命じた。澶州で将士が駅に押し寄せ、郭威に天子になるよう請い、黄旗を裂いて郭威の身にかけた。漢の太后が符宝を授け、郭威は崇元殿で即位し、国号を周、乾祐四年を広順元年とした。廃された劉贇の最期を、旧五代史は殂とだけ記し、新五代史は王峻が郭崇に迎えさせて殺したと記す。新五代史は、魏仁浦が郭威に反を勧め、詔書を書き換えて将校を激怒させるよう教えたと記すが、旧五代史の太祖紀にその記述は無い。
治世と最期
即位の翌年、慕容彦超が兗州に拠って反した。郭威は京師を発して兗州を収復し、彦超を斬ってその一族を夷した。資治通鑑は、彦超は妻とともに井戸に身を投げて死んだと記し、旧五代史の斬という書きぶりと異なる。953年、郭威は民間にいて営田の弊を知っていたので、官有の荘田およそ一万を佃戸に永業として分け与えた。954年、鄴都留守の王殷は官爵を削られて長流され、まもなく賜死された。その後、病が重くなり、郊廟の礼は無理をして行ったにすぎなかった。郭威は滋徳殿で崩じた。
在位中の出来事(7件)
後周の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代太祖951–954年病死
- 第2代世宗954–959年病死
- 第3代恭帝959–960年不詳
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