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後周(こうしゅう)(五代十国(ごだいじっこく))第3代分裂期の王朝

恭帝(きょうてい)柴宗訓(さいそうくん)

在位 959年7月28日〜960年2月3日(190日)

姓柴(さい)諱宗訓(そうくん)

恭帝の人物データ

生年
953年9月14日
在位
  • 959年7月28日〜960年2月3日
在位 190日7歳で即位(数え年)・長さは365名中316位
没年
973年4月21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
世襲
先代
  • 世宗後周恭帝は世宗の子
次代
  • 太祖北宋太祖と恭帝に血縁はない

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 太祖本紀三/旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
即位経路
旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

後周(こうしゅう)世宗(せいそう)の子で、幼くして位を継いだが、翌年の陳橋(ちんきょう)の変を経て趙匡胤(ちょうきょういん)に位を譲った。

即位まで

旧五代史(きゅうごだいし)によれば、世宗(せいそう)の子として澶州(せんしゅう)の府第で生まれた。新五代史(しんごだいし)は世宗(せいそう)の第四子とし、世宗(せいそう)が病で京師に戻ったのち、七歳で梁王(りょうおう)に封じられたと記す。959年、梁王(りょうおう)に封じられた十日後に世宗(せいそう)が崩じ、その翌日に遺制によって柩(ひつぎ)の前で即位した。即位後、宰相の范(はん)質らが三度上表(じょうひょう)して聴政を請い、柴宗訓(さいそうくん)はこれを許した。

治世と最期

大赦を行い、同じ月に殿前都点検(でんぜんとてんけん)の趙匡胤(ちょうきょういん)を宋州(そうしゅう)節度使(せつどし)に移した。960年の年頭、契丹(きったん)と北漢(ほくかん)の侵入が奏上され、趙匡胤(ちょうきょういん)に北征が命じられた。出陣した軍は陳橋駅(ちんきょうえき)に宿り、夜明け前に兵変が起こって、将士は趙匡胤(ちょうきょういん)を推戴して南へ向かった。旧五代史(きゅうごだいし)は柴宗訓(さいそうくん)の名で出た禅位(ぜんい)の詔を載せ、宋史(そうし)の太祖(たいそ)紀(き)は、翰林承旨(かんりんしょうし)の陶穀が袖の中から禅位(ぜんい)の制書(せいしょ)を出したと記す。新五代史(しんごだいし)の周本紀(しゅうほんぎ)は、位を遜り、宋(そう)が興ったとだけ書き、陳橋(ちんきょう)の変には触れない。退位した柴宗訓(さいそうくん)は鄭王(ていおう)に封じられ、符太后(たいこう)とともに西宮(せいきゅう)へ移された。962年には房州(ぼうしゅう)へ出て住んだ。続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は、房州(ぼうしゅう)へ移った年を970年とする唐余録(とうよろく)の説を、誤りであろうとして採らない。973年に房州(ぼうしゅう)で亡くなり、宋(そう)太祖(たいそ)は素服で哀を発して朝を十日やめ、恭帝(きょうてい)と諡(おくりな)して順陵(じゅんりょう)に葬らせた。旧五代史(きゅうごだいし)・宋史(そうし)・続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は死を殂(そ)・崩とだけ書き、死因は記さない。

在位中の出来事(2件)

大赦959年8月29日
被反乱960年2月2日〜960年2月3日陳橋の変(陳橋兵変)

後周の歴代皇帝

3名の一覧

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