後周(五代十国)第3代分裂期の王朝
恭帝柴宗訓
在位 959年7月28日〜960年2月3日(190日)
姓柴諱宗訓
恭帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 太祖本紀三/旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
- 即位経路
- 旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後周世宗の子で、幼くして位を継いだが、翌年の陳橋の変を経て趙匡胤に位を譲った。
即位まで
旧五代史によれば、世宗の子として澶州の府第で生まれた。新五代史は世宗の第四子とし、世宗が病で京師に戻ったのち、七歳で梁王に封じられたと記す。959年、梁王に封じられた十日後に世宗が崩じ、その翌日に遺制によって柩の前で即位した。即位後、宰相の范質らが三度上表して聴政を請い、柴宗訓はこれを許した。
治世と最期
大赦を行い、同じ月に殿前都点検の趙匡胤を宋州節度使に移した。960年の年頭、契丹と北漢の侵入が奏上され、趙匡胤に北征が命じられた。出陣した軍は陳橋駅に宿り、夜明け前に兵変が起こって、将士は趙匡胤を推戴して南へ向かった。旧五代史は柴宗訓の名で出た禅位の詔を載せ、宋史の太祖紀は、翰林承旨の陶穀が袖の中から禅位の制書を出したと記す。新五代史の周本紀は、位を遜り、宋が興ったとだけ書き、陳橋の変には触れない。退位した柴宗訓は鄭王に封じられ、符太后とともに西宮へ移された。962年には房州へ出て住んだ。続資治通鑑長編は、房州へ移った年を970年とする唐余録の説を、誤りであろうとして採らない。973年に房州で亡くなり、宋太祖は素服で哀を発して朝を十日やめ、恭帝と諡して順陵に葬らせた。旧五代史・宋史・続資治通鑑長編は死を殂・崩とだけ書き、死因は記さない。
在位中の出来事(2件)
大赦959年8月29日
被反乱960年2月2日〜960年2月3日陳橋の変(陳橋兵変)
後周の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代太祖951–954年病死
- 第2代世宗954–959年病死
- 第3代恭帝959–960年不詳