後晋(五代十国)第2代分裂期の王朝
少帝石重貴
在位 942年7月28日〜947年1月11日(4年168日)
姓石諱重貴別称出帝
少帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻八十五(晋書・少帝紀五)
- 即位経路
- 新五代史 巻九(晋本紀第九・論賛)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石重貴は後晋の高祖石敬瑭の兄の子で、942年に高祖の跡を継いだ。契丹との対立を深め、947年に契丹へ連行されて後晋は滅びた。
即位まで
旧五代史は、重貴は高祖の兄の子で、父の敬儒が早世し、高祖が子としたと記す。旧五代史は、高祖が崩じた日に遺制により柩の前で即位したと記す。資治通鑑は、高祖が病床で幼い重睿を馮道に託そうとしたが、崩じると馮道と景延広が、難の多い国には長君を立てるべきだと議して重貴を奉じたと記す。新五代史は、遺命を廃して重貴を立てたので、少帝の即位は正しい手続きによらなかったと評する。
治世と最期
資治通鑑によれば、即位の初め、大臣たちは契丹に臣と称して告哀しようと議したが、景延広が、臣ではなく孫と称するよう請い、少帝はこれに従った。契丹は大いに怒った。944年、戚城で契丹に囲まれた高行周らを、少帝が自ら親兵を率いて救った。945年、北の敵が平らがぬうちは安眠できないと述べて親征を詔し、陽城の戦いで晋の諸将が契丹軍を大破した。同じ年、降った青州の楊光遠は、李守貞に絞め殺された。少帝は全うさせようとしたが、守貞は殺して病死と報告した。947年、杜威・李守貞らが契丹に降ったと聞いた夜、張彦沢が先鋒を率いて京城に突入した。少帝は剣を携えて后妃らを駆り、火に赴こうとしたが、薛超に止められた。契丹は少帝を光禄大夫・検校太尉に降し、負義侯に封じて黄龍府に安置した。のち949年に遼陽から建州へ移されたが、旧五代史の本文は没年月日を記さない。新五代史と資治通鑑は、周の顕徳年間に契丹から来た者が、少帝と馮后はなお無事と語ったと記す。
在位中の出来事(12件)
被反乱942年安从进の乱(襄州)
大赦942年9月1日即位直後の恩赦。
大赦943年旱害・蝗害対応の恩赦。
改元944年元号を「開運」とする
大赦944年改元と同時の大赦。
親征944年契丹(遼)
被反乱944年杨光远の乱(青州)
大赦945年
親征945年契丹(遼)
立后946年呉国夫人馮氏を皇后に正式册立。
残り2件を表示
被反乱946年孙方简の離反(狼山)
被反乱947年1月10日杜威・李守貞ら諸将の契丹投降と張彦沢の帝都突入・少帝捕縛
後晋の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代高祖936–942年病死
- 第2代少帝942–947年不詳