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天順帝の肖像

元(げん)第11代統一王朝

天順帝(てんじゅんてい)アリギバ

在位 1328年10月4日〜1328年11月14日(41日)

漢字音写阿速吉八(アリギバ)別名阿剌吉八(アリギバ)

天順帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1328年10月4日〜1328年11月14日
在位 41日9歳で即位(数え年)・長さは365名中350位
没年
不詳
死因
不詳365名中33名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
新元史 巻二十九・巻二百八
即位経路
元史 巻三十(泰定帝二)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の泰定帝(たいていてい)の死後、上都(じょうと)で権臣の倒剌沙(とうらつさ)に立てられたが、大都(だいと)で即位した文宗(ぶんそう)の側との戦いに敗れ、上都(じょうと)が降ると行方が知れなくなった元の皇帝である。

即位まで

泰定帝(たいていてい)の子で、1324年に皇太子に立てられた。新元史(しんげんし)の諸王伝(しょおうでん)は、泰定帝(たいていてい)の四人の子のうちの長子とする。1328年に泰定帝(たいていてい)が没すると、新元史(しんげんし)の倒剌沙(とうらつさ)伝によれば、倒剌沙(とうらつさ)が遺命を受けて幼い皇太子を立てたが、諸王や大臣がそろわず即位の詔は出さなかった。元史(げんし)の明宗(めいそう)紀(き)は、倒剌沙(とうらつさ)が権をほしいままにして一月を過ぎても君主を立てなかったとする。同じ年、倒剌沙(とうらつさ)が皇太子を皇帝に立てて天順(てんじゅん)と改元(かいげん)したと、元史(げんし)の泰定帝(たいていてい)紀(き)は一文だけ記す。新元史(しんげんし)は即位の地を上都(じょうと)とし、清代の御批歴代通鑑輯覧(ぎょひれきだいつがんしゅうらん)は即位を一月早く置く。

治世と最期

そのころ大都(だいと)では燕鉄木児(エル・テムル)が武宗(ぶそう)の子を迎えると号して懐王(かいおう)を江陵(こうりょう)から迎え、懐王(かいおう)は大都(だいと)で即位して文宗(ぶんそう)となった。倒剌沙(とうらつさ)は兵を分けて大都(だいと)を攻めさせ、上都(じょうと)側の梁王(りょうおう)王禅は居庸関(きょようかん)を破ったが、燕鉄木児(エル・テムル)に敗れて昌平(しょうへい)へ退いた。やがて斉王(せいおう)月魯帖木児(げつろてむる)らが上都(じょうと)を囲み、倒剌沙(とうらつさ)らは皇帝の宝を奉じて降った。降った日を元史(げんし)の文宗(ぶんそう)紀(き)と新元史(しんげんし)の燕鉄木児(エル・テムル)の伝は1日違えて書く。倒剌沙(とうらつさ)は誅(ちゅう)され、屍(しかばね)を市にさらされた。新元史(しんげんし)の泰定帝(たいていてい)紀(き)と清代の続資治通鑑(しじつがん)は、上都(じょうと)が降ったのち天順帝(てんじゅんてい)の行方は知れないと記す。元史(げんし)の本紀(ほんぎ)と新元史(しんげんし)の倒剌沙(とうらつさ)伝は、その後の天順帝(てんじゅんてい)について何も書かない。

在位中の出来事(2件)

被反乱1328年9月8日〜1328年11月14日天暦の内乱(上都陥落)
改元1328年10月元号を「天順」とする

元の歴代皇帝

11名の一覧

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