元第16代統一王朝
恵宗トゴン・テムル
在位 1333年7月19日〜1370年5月23日(36年317日)
漢字音写妥懽帖睦爾別称順帝
恵宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 元史 巻四十七(順帝十)
- 即位経路
- 元史 巻三十八(順帝一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
順帝(トゴン・テムル)は明宗の長子で、1333年に即位した。1368年に大都を出て北へ奔り、1370年に応昌で崩じた。
即位まで
元史は、文宗の時、明宗の后の八不沙が讒言で害されたのち、帝は高麗の大青島に移されたと記す。のち文宗は、明宗は帝を己の子ではないと言っていたと天下に詔し、帝を広西の静江に移した。1332年に寧宗が崩じると、燕鉄木児は再び文宗の子の燕帖古思を立てるよう請うたが、文宗の后は、妥歓帖睦爾は明宗の長子で、礼として立てるべきだと述べた。燕鉄木児が死ぬと、文宗の后が大臣と議して帝を立て、万歳ののちは燕帖古思に位を伝えると約した。即位の場所を、元史は上都とし、新元史は大都とする。
治世と最期
即位ののち、明宗の旧臣の阿魯輝帖木児の進言を信じて、帝は深く宮中にこもり、事を専らにしなかった。1340年、帝は伯顔を黜け、専権自恣で帝の年少を欺いたと責めた。同じ年、文宗の廟主を撤し、燕帖古思を高麗へ放った。1341年に至正と改元した。1351年、賈魯に黄河の故道を開かせたが、同じ年に潁州の劉福通が紅巾を号として反し、潁州を陥した。1368年、帝が北行を議すると、失列門らが不可と諫め、宦者の趙伯顔不花も泣いて諫めたが、帝は聴かなかった。元史は、帝が夜半に大都を出て北へ奔り、のち明軍が大都に入って元の国は亡んだと記す。元史の順帝紀にも新元史の恵宗紀にも、順帝を宋の瀛国公の子とする説は書かれていない。在位を、元史は三十六年、新元史は三十七年とする。
在位中の出来事(61件)
被反乱1333年〜1335年広西・道州徭乱(初期)
大赦1333年7月19日
立后1333年9月至順四年(1333年)八月、燕鉄木児の娘・伯牙吾氏(答納失里、欽察氏)を皇后に立てる。
改元1333年11月15日元号を「元統」とする
大赦1334年
大赦1334年
改元1335年元号を「至元」とする
大赦1335年
大赦1335年
大赦1335年
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立后1337年至元三年(1337年)三月戊午、弘吉剌氏の伯顔忽都を玉宝・玉冊をもって皇后に立てる。
被反乱1337年朱光卿の乱(自称大金国)
被反乱1337年合州大足の乱(自称南朝趙王)
被反乱1337年棒胡の乱
大赦1338年
被反乱1338年周子旺の乱(僭称周王)
被反乱1338年李志甫の乱(漳州南勝)
被反乱1339年范孟の乱(偽伝帝旨)
立后1340年
改元1341年元号を「至正」とする
被反乱1341年何仁甫の乱(道州)
被反乱1341年道州蒋丙の乱(自号順天王)
被反乱1342年雲南車里の反乱
被反乱1342年慶遠路莫八の乱
大赦1343年
被反乱1343年阿魯・秃満の謀反未遂
被反乱1343年遼陽吾者野人の反乱(断続的)
被反乱1344年益都塩徒郭火你赤の乱
大赦1346年
被反乱1346年汀州連城の乱
被反乱1346年散毛洞蛮の反乱
被反乱1346年湖広徭族呉天保の乱
被反乱1347年亦怜只答儿の乱
被反乱1348年遼東鎖火奴の乱(自称大金子孫)
被反乱1348年遼陽兀顔撥魯歓の乱(自称大金子孫)
大赦1350年
被反乱1350年冀寧平遥の乱
被反乱1351年江西瑞州の乱
被反乱1351年徐州(芝麻李)の乱
被反乱1351年紅巾軍(劉福通・韓林児)の反乱
被反乱1351年徐寿輝天完政権とその後継反乱
大赦1352年
大赦1353年
被反乱1353年張士誠の乱(泰州・高郵、後の呉王)
大赦1356年
大赦1357年
被反乱1357年済寧・東平の乱(元将からの離反)
被反乱1357年泉州の乱(亦思巴奚兵乱)
被反乱1358年部落灭里の乱(趙王暗殺未遂)
被反乱1359年京師兵馬司の謀反未遂
被反乱1360年阳翟王阿魯輝帖木児の乱
大赦1361年
被反乱1361年広東八撒剌不花の乱(広州占拠)
大赦1363年
被反乱1364年孛羅帖木児のクーデター(京師侵入)
大赦1365年
立后1366年
大赦1367年
被反乱1367年拡廓帖木児討伐令(貊高派の讒言)
遷都1368年大都(Dadu、現北京) → 上都(Shangdu、開平)
遷都1369年上都(Shangdu、開平) → 応昌(応昌府)