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高祖の肖像

後漢(こうかん)・五代十国(ごだいじっこく)第1代分裂期の王朝

高祖(こうそ)劉知遠(りゅうちえん)

在位 947年3月10日〜948年3月10日(1年1日)

姓劉(りゅう)諱知遠(ちえん)

高祖の人物データ

生年
895年3月4日
在位
  • 947年3月10日〜948年3月10日
在位 1年1日53歳で即位(数え年)・長さは365名中289位タイ
没年
948年3月10日54歳(数え年)267名中長寿順62位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 隠帝後漢・五代十国隠帝は高祖の子
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)
即位経路
旧五代史 巻九十九(漢書・高祖紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

後晋(こうしん)が契丹(きったん)に滅ぼされた空白に太原(たいげん)で即位し、開封に入って後漢(ごかん)を建てたが、翌年に世を去った。旧五代史(きゅうごだいし)の史臣(ししん)は、并(へい)・汾(ふん)から起こって空白に乗じて神器(じんき)を取り、乱によって帝業を得たと評する。

即位まで

旧五代史(きゅうごだいし)は先祖を沙陀(さだ)部の人とし、太原(たいげん)で生まれたとする。後晋(こうしん)の杜重威(とちょうい)が全軍で契丹(きったん)に降り、開封が落ちて少帝(しょうてい)が移されたと聞くと、劉知遠(りゅうちえん)は大いに驚いて兵を分け、境を守った。契丹(きったん)主の耶律(やりつ)徳光(とくこう)が開封に入ると、劉知遠(りゅうちえん)は上表(じょうひょう)して恭順を示し、耶律(やりつ)徳光(とくこう)は劉知遠(りゅうちえん)を兒(じ)と呼んで木の杖を賜った。947年、配下が中原(ちゅうげん)に主が無いとして即位を勧めると、劉知遠(りゅうちえん)は辞退したのち、三度目の勧めを許した。資治通鑑(しじつがん)は、迷う劉知遠(りゅうちえん)を郭威(かくい)と楊(よう)邠(ひん)が説いて従わせたと書く。同じ年に太原宮(たいげんきゅう)で即位し、晋(しん)の開運(かいうん)四年を天福(てんぷく)十二年に改めた。

治世と最期

遼史(りょうし)は即位の日に国号を漢としたと書くが、旧五代史(きゅうごだいし)と新五代史(しんごだいし)は国号を開封で下した制に置く。旧五代史(きゅうごだいし)によれば、劉知遠(りゅうちえん)が洛陽(らくよう)に着いた日、契丹(きったん)に立てられていた李(り)従益(じゅうえき)と、後唐(こうとう)明宗(めいそう)の淑妃(しゅくひ)の王氏(おうし)が開封で死を賜った。資治通鑑(しじつがん)はこれを劉知遠(りゅうちえん)が密かに殺させたものとし、王淑妃(しゅくひ)は死に臨んで、我が子は契丹(きったん)に立てられただけで何の罪があるのかと言ったと記す。資治通鑑(しじつがん)によれば、開封に入ったとき、契丹(きったん)が残した幽州(ゆうしゅう)兵千五百人を疑って皆殺しにした。その年のうちに杜重威(とちょうい)が鄴都(ぎょうと)で叛(そむ)くと、そこに加わった幽州(ゆうしゅう)兵は降伏を拒み、城は久しく落ちなかった。杜重威(とちょうい)は948年の初めに素服で出て降り、劉知遠(りゅうちえん)はその罪を許した。同じころ、皇子の劉(りゅう)承訓(しょうくん)が死んだ。資治通鑑(しじつがん)は、劉知遠(りゅうちえん)がその死を悲しみすぎて病に伏したと書くが、旧五代史(きゅうごだいし)の高祖(こうそ)紀(き)は病と劉(りゅう)承訓(しょうくん)の死を結び付けていない。948年、万歳殿(ばんざいでん)で崩じた。資治通鑑(しじつがん)によれば、死の床で蘇逢吉(ほうきつ)・郭威(かくい)らに幼い劉承祐(りゅうしょうゆう)を託し、杜重威(とちょうい)に気をつけよと言い、蘇逢吉(ほうきつ)らは喪を秘して、数日後に詔で杜重威(とちょうい)父子を斬った。

在位中の出来事(8件)

改元947年3月10日元号を「天福」とする
被反乱947年3月18日代州刺史王暉の反乱(契丹への離反)
立后947年5月1日
遷都947年7月1日太原(建国地) → 東京(開封)
大赦947年7月5日
被反乱947年9月5日〜948年1月10日杜重威の鄴都反乱
改元948年2月17日元号を「乾祐」とする
大赦948年2月17日

後漢・五代十国の歴代皇帝

2名の一覧

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