
後漢・五代十国第1代分裂期の王朝
高祖劉知遠
在位 947年3月10日〜948年3月10日(1年1日)
高祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)
- 即位経路
- 旧五代史 巻九十九(漢書・高祖紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後晋が契丹に滅ぼされた空白に太原で即位し、開封に入って後漢を建てたが、翌年に世を去った。旧五代史の史臣は、并・汾から起こって空白に乗じて神器を取り、乱によって帝業を得たと評する。
即位まで
旧五代史は先祖を沙陀部の人とし、太原で生まれたとする。後晋の杜重威が全軍で契丹に降り、開封が落ちて少帝が移されたと聞くと、劉知遠は大いに驚いて兵を分け、境を守った。契丹主の耶律徳光が開封に入ると、劉知遠は上表して恭順を示し、耶律徳光は劉知遠を兒と呼んで木の杖を賜った。947年、配下が中原に主が無いとして即位を勧めると、劉知遠は辞退したのち、三度目の勧めを許した。資治通鑑は、迷う劉知遠を郭威と楊邠が説いて従わせたと書く。同じ年に太原宮で即位し、晋の開運四年を天福十二年に改めた。
治世と最期
遼史は即位の日に国号を漢としたと書くが、旧五代史と新五代史は国号を開封で下した制に置く。旧五代史によれば、劉知遠が洛陽に着いた日、契丹に立てられていた李従益と、後唐明宗の淑妃の王氏が開封で死を賜った。資治通鑑はこれを劉知遠が密かに殺させたものとし、王淑妃は死に臨んで、我が子は契丹に立てられただけで何の罪があるのかと言ったと記す。資治通鑑によれば、開封に入ったとき、契丹が残した幽州兵千五百人を疑って皆殺しにした。その年のうちに杜重威が鄴都で叛くと、そこに加わった幽州兵は降伏を拒み、城は久しく落ちなかった。杜重威は948年の初めに素服で出て降り、劉知遠はその罪を許した。同じころ、皇子の劉承訓が死んだ。資治通鑑は、劉知遠がその死を悲しみすぎて病に伏したと書くが、旧五代史の高祖紀は病と劉承訓の死を結び付けていない。948年、万歳殿で崩じた。資治通鑑によれば、死の床で蘇逢吉・郭威らに幼い劉承祐を託し、杜重威に気をつけよと言い、蘇逢吉らは喪を秘して、数日後に詔で杜重威父子を斬った。
在位中の出来事(8件)
後漢・五代十国の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代高祖947–948年病死
- 第2代隠帝948–951年暗殺