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後漢(こうかん)・五代十国(ごだいじっこく)第2代分裂期の王朝

隠帝(いんてい)劉承祐(りゅうしょうゆう)

在位 948年3月14日〜951年1月2日(2年294日)

姓劉(りゅう)諱承祐(しょうゆう)

隠帝の人物データ

生年
931年3月28日
在位
  • 948年3月14日〜951年1月2日
在位 2年294日18歳で即位(数え年)・長さは365名中230位
没年
951年1月2日20歳(数え年)267名中長寿順235位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 高祖後漢・五代十国隠帝は高祖の子
次代
  • 太祖後周太祖と隠帝に血縁はない

出典(死因・即位経路)

死因
旧五代史 巻一百三(漢書・隠帝紀下)
即位経路
旧五代史 巻一百一(漢書・隠帝紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

重臣を一度に殺したことで郭威(かくい)の挙兵を招き、逃げる途中で殺された後漢(ごかん)の最後の皇帝である。

即位まで

後漢(ごかん)の高祖(こうそ)劉知遠(りゅうちえん)の第二子である。新五代史(しんごだいし)によれば、高祖(こうそ)は兄の魏王(ぎおう)承訓(しょうくん)を跡継ぎにするつもりだったが承訓(しょうくん)が先に死に、病の重くなった高祖(こうそ)は隠帝(いんてい)を将相に託した。948年に高祖(こうそ)が没すると喪は伏せられ、隠帝(いんてい)は周王(しゅうおう)に封じられたうえで柩(ひつぎ)の前で即位した。

治世と最期

即位するとすぐ河中(かちゅう)の李(り)守貞(しゅてい)が背き、永興(えいこう)の趙(ちょう)思綰(しわん)と鳳翔(ほうしょう)の王景崇(けいすう)もこれに続いたが、翌年に郭威(かくい)が河中(かちゅう)を落とした。950年の暮れ、隠帝(いんてい)は自分の若さにつけこんで権を握ったとして楊(よう)邠(ひん)・史弘肇(こうちょう)・王章を殺してその一族を滅ぼし、同じ日に鄴都(ぎょうと)の郭威(かくい)と王峻(しゅん)も密詔(みっしょう)で殺させようとした。密詔(みっしょう)は郭威(かくい)の手に渡り、将兵に促された郭威(かくい)は南へ兵を進めた。迎え撃った慕容(ぼよう)彦超(げんちょう)が敗れると官軍は次々と郭威(かくい)の側へ走り、隠帝(いんてい)は都の門で劉(りゅう)銖(しゅ)に供回(ともまわ)りを射られて引き返した。旧五代史(きゅうごだいし)と新五代史(しんごだいし)は、隠帝(いんてい)が逃げ込んだ村の民家で、側近の郭允明(いんめい)に殺されたと書く。資治通鑑(しじつがん)は乱兵に殺されたとだけ書き、考異(こうい)で、郭威(かくい)の兵が殺したのを後で隠し、自殺した郭允明(いんめい)に罪を着せたのだろうという劉(りゅう)恕(じょ)の見方を引いている。旧五代史(きゅうごだいし)は、隠帝(いんてい)が聶(じょう)文進(ぶんしん)や郭允明(いんめい)らと親しみ、その邪な説を信じて身を滅ぼしたと評する。

在位中の出来事(7件)

大赦948年3月26日即位後初の大赦。
被反乱948年4月〜949年7月河中李守貞の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱948年5月〜949年8月永興趙思綰の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱948年7月冀州張廷翰の兵変
被反乱948年8月〜950年1月鳳翔王景崇の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱949年延州劉景巖の反乱
被反乱950年12月25日〜951年1月2日郭威の乱(隠帝弑逆クーデター)

後漢・五代十国の歴代皇帝

2名の一覧

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