後漢・五代十国第2代分裂期の王朝
隠帝劉承祐
在位 948年3月14日〜951年1月2日(2年294日)
姓劉諱承祐
隠帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻一百三(漢書・隠帝紀下)
- 即位経路
- 旧五代史 巻一百一(漢書・隠帝紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
重臣を一度に殺したことで郭威の挙兵を招き、逃げる途中で殺された後漢の最後の皇帝である。
即位まで
後漢の高祖劉知遠の第二子である。新五代史によれば、高祖は兄の魏王承訓を跡継ぎにするつもりだったが承訓が先に死に、病の重くなった高祖は隠帝を将相に託した。948年に高祖が没すると喪は伏せられ、隠帝は周王に封じられたうえで柩の前で即位した。
治世と最期
即位するとすぐ河中の李守貞が背き、永興の趙思綰と鳳翔の王景崇もこれに続いたが、翌年に郭威が河中を落とした。950年の暮れ、隠帝は自分の若さにつけこんで権を握ったとして楊邠・史弘肇・王章を殺してその一族を滅ぼし、同じ日に鄴都の郭威と王峻も密詔で殺させようとした。密詔は郭威の手に渡り、将兵に促された郭威は南へ兵を進めた。迎え撃った慕容彦超が敗れると官軍は次々と郭威の側へ走り、隠帝は都の門で劉銖に供回りを射られて引き返した。旧五代史と新五代史は、隠帝が逃げ込んだ村の民家で、側近の郭允明に殺されたと書く。資治通鑑は乱兵に殺されたとだけ書き、考異で、郭威の兵が殺したのを後で隠し、自殺した郭允明に罪を着せたのだろうという劉恕の見方を引いている。旧五代史は、隠帝が聶文進や郭允明らと親しみ、その邪な説を信じて身を滅ぼしたと評する。
在位中の出来事(7件)
大赦948年3月26日即位後初の大赦。
被反乱948年4月〜949年7月河中李守貞の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱948年5月〜949年8月永興趙思綰の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱948年7月冀州張廷翰の兵変
被反乱948年8月〜950年1月鳳翔王景崇の乱(三鎮の乱の一つ)
被反乱949年延州劉景巖の反乱
被反乱950年12月25日〜951年1月2日郭威の乱(隠帝弑逆クーデター)
後漢・五代十国の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代高祖947–948年病死
- 第2代隠帝948–951年暗殺