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憲宗の肖像

唐(とう)第14代統一王朝

憲宗(けんそう)李(り)純(じゅん)

在位 805年9月5日〜820年2月14日(14年165日)

姓李(り)諱純(じゅん)

憲宗の人物データ

生年
778年3月
在位
  • 805年9月5日〜820年2月14日
在位 14年165日長さは365名中92位
没年
820年2月14日43歳(数え年)267名中長寿順115位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
内禅
先代
  • 順宗唐憲宗は順宗の子
次代
  • 穆宗唐穆宗は憲宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻十五(憲宗紀下)/新唐書 巻207(宦者伝上・王守澄伝)
即位経路
旧唐書 巻十四(順宗紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

淮西(わいせい)の呉元済(げんせい)と淄青(しせい)の李(り)師道(しどう)を平らげたが、宦官(かんがん)の手で殺されたと伝わる唐の皇帝である。

即位まで

順宗(じゅんそう)の長子で、805年に皇太子に立てられ、政務を代行した。同じ年のうちに父から位を譲られて即位した。

治世と最期

即位の翌年に元和(げんわ)と改元(かいげん)し、同じ年に太上皇(たいじょうこう)の順宗(じゅんそう)が没した。815年、成徳(せいとく)の王承宗(しょうそう)が送った刺客が宰相の武元衡(げんこう)を殺し、裴(はい)度も傷を負った。817年には李(り)愬(そ)が蔡州(さいしゅう)へ入って呉元済(げんせい)を捕らえ、819年には李(り)師道(しどう)が配下に斬られて淄青(しせい)12州が平定された。820年、金丹を飲んで具合を悪くし、元日の朝会を取りやめた。それから間もない夕刻、大明宮(たいめいきゅう)の中和殿(ちゅうわでん)で急死した。旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は、急な死だったため誰もが宦官(かんがん)の陳弘志(こうし)が殺したと言ったが史官(しかん)は憚(はばか)って書かなかったと記し、同じ旧唐書(くとうじょ)の宦官(かんがん)伝は内官(ないかん)の陳弘慶(こうけい)らが弑逆(しいぎゃく)したと断じる。新唐書(しんとうじょ)は陳弘志(こうし)らが反したと本紀(ほんぎ)に書き、王守澄(しゅちょう)伝では王守澄(しゅちょう)と陳弘志(こうし)が中和殿(ちゅうわでん)で殺して薬の発作による急死と偽ったとする。資治通鑑(しじつがん)は急死と書いて、当時の人は陳弘志(こうし)が殺したと言ったと添え、考異(こうい)では、諸書の説が分かれていて真偽を確かめられないと述べている。旧唐書(くとうじょ)の史臣(ししん)は唐の中興の君と称えつつ、薬を飲みすぎたことと宦官(かんがん)の変に倒れたことを惜しんでいる。

在位中の出来事(19件)

改元806年元号を「元和」とする
大赦806年
被反乱806年剣南西川・劉辟の乱
被反乱806年夏綏・楊恵琳の乱
大赦807年元和二年正月辛卯、南郊で昊天上帝を祀った郊祀の儀に伴う大赦天下。
被反乱807年鎮海・李錡の乱
大赦808年
被反乱809年〜810年成徳・王承宗の乱(第一次)
被反乱810年義武軍(定州)楊伯玉の乱
被反乱813年〜814年振武軍の乱(蘇国珍)
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被反乱814年〜817年淮西・呉元済の乱
被反乱815年〜818年成徳・王承宗の乱(第二次、宰相暗殺事件)
被反乱815年淄青・李師道の東都進奏院襲撃未遂
被反乱816年宥州軍の乱(駱怡追放)
大赦818年元和十三年正月己酉朔、元日朝賀の礼に伴う大赦天下。
被反乱818年〜819年淄青・李師道の乱(正式反乱)
大赦819年
被反乱819年沂州軍の乱(王弁)
被反乱819年安南軍の乱(李象古殺害)

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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