
唐第12代統一王朝
徳宗李适
在位 779年6月12日〜805年2月25日(25年265日)
姓李諱适
徳宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻十三(徳宗紀下)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十二(徳宗紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
徳宗(李适)は唐の代宗の長子で、両税法を定めた皇帝である。治世の前半に長安の兵変で奉天へ逃れ、藩鎮の罪を洗い流す詔を下した。
即位まで
742年に生まれ、764年に皇太子に立てられた。779年、代宗が崩じると太極殿で即位した。
治世と最期
翌年に建中と改元し、赦文で両税のほかに一銭でも取り立てれば法を曲げた罪とすると定めた。旧唐書の楊炎伝によれば、両税法は楊炎が奏請したもので、主戸と客戸を問わず住む所で籍に付け、夏と秋の二度に徴するものだった。783年、救援に向かう涇原の兵が浐水で寝返って長安へ引き返すと、徳宗は太子や諸王らと苑の北門から逃れて奉天に至った。資治通鑑によれば、兵はねぎらいの食事が粗末なのに怒り、宮中の二庫の財物を奪おうと引き返したのだった。乱兵は朱泚を迎えて帥とし、朱泚は迎えられた直後は太尉と称し、まもなく大秦皇帝を自称して改元した。奉天の包囲は、李懐光の軍が近づいた夜に解けた。784年の元日、徳宗は奉天で自らの非を認める詔を下して興元と改元し、李希烈・田悦・王武俊・李納の罪を洗い流した。まもなく李懐光も背いたため梁州へ移り、朱泚が斬られたのちに長安へ還った。805年の元日に体調を崩し、宣政殿で群臣に遺詔を宣して、その日に会寧殿で崩じた。資治通鑑は、元日の賀に皇太子だけが病で来られず、徳宗が悲嘆したことから病が重くなったとし、遺詔を宣したのを崩御の翌日とする。旧唐書と新唐書の本紀は病名を記さない。
在位中の出来事(27件)
大赦779年大暦十四年六月己亥朔、即位直後に丹鳳楼にて大赦天下。
改元780年元号を「建中」とする
大赦780年建中元年正月、郊丘での親祭当日、還宮して丹鳳門にて大赦天下。
被反乱780年刘文喜の反乱(泾原)
被反乱781年〜782年李惟岳の反乱(成德)
被反乱781年〜784年田悦の反乱(魏博、四王の乱の一角)
被反乱782年〜784年硃滔の反乱(卢龙/幽州、四王の乱の一角)
被反乱782年〜784年王武俊の反乱(成德、四王の乱の一角)
被反乱782年〜785年李纳の反乱(淄青/平卢、四王の乱の一角)
被反乱782年〜786年李希烈の反乱(淮西/淮宁)
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被反乱783年〜784年硃泚の反乱(泾原兵変・自立帝、奉天の囲み)
改元784年元号を「興元」とする
大赦784年建中五年(興元元年)正月、興元改元の詔とともに大赦天下。
大赦784年興元元年七月辛卯、長安へ還ったのち、丹鳳楼にて大赦天下。
被反乱784年〜785年李怀光の反乱(朔方)
被反乱784年田希鉴の反乱(泾州の乱)
改元785年元号を「貞元」とする
大赦785年貞元元年正月丁酉朔、貞元改元の詔とともに大赦天下。
大赦785年貞元元年十一月癸卯、圜丘での親祭後、丹鳳楼にて大赦天下。
立后786年貞元二年十一月甲午、淑妃王氏を皇后に冊立する旨の詔が出され、3日後の丁酉に正式な冊立の儀(冊皇后王氏)が行われた。
大赦788年貞元四年正月庚戌朔、丹鳳楼にて大赦天下(大辟以下の罪をことごとく赦除)。
被反乱788年邠宁軍の反乱(貞元四年)
被反乱792年襄州軍の反乱(貞元八年)
大赦793年貞元九年十一月乙酉、圜丘での親祭後、丹鳳楼にて大赦天下。
被反乱794年汴州軍の反乱(貞元十年、李万荣に対する反乱)
被反乱799年汴州軍の反乱(貞元十五年、陆长源殺害)
被反乱799年〜800年呉少誠の反乱(淮西)
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑