秦・漢(唐)第1代分裂期の王朝
朱泚
在位 783年11月7日〜784年7月(237日)
朱泚の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 783年11月7日〜784年7月
- 没年
- 784年7月43歳(数え年)267名中長寿順115位タイ
- 死因
- 暗殺非業の死・365名中94名
- 即位経路
- 自立帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻二百上(硃泚伝)
- 即位経路
- 旧唐書 巻二百上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
朱泚は幽州の人で、783年に泾原の叛卒に迎えられて長安で皇帝を称した。翌784年に官軍が長安を取り戻すと西へ逃れ、部下に斬られた。
即位まで
旧唐書は、朱泚は財を軽んじ施しを好み、戦で得た賞を配下に分けて人望を得たと記す。783年、泾原の兵が叛いて徳宗が奉天へ逃げると、叛卒は、泾州を治めたことがあり、権を失って廃居している朱泚を主に立てようとした。旧唐書の本紀は、乱兵が朱泚を迎えて帥に立て、朱泚が太尉を称して含元殿に居たと記す。旧唐書の列伝によれば、朱泚は初め太尉と称するだけだったが、源休が人払いして符命を説き、僭号を勧めると大いに悦んだ。
治世と最期
旧唐書の列伝は、朱泚が宣政殿で偽位に即き、大秦皇帝を自称して応天と号したと記す。新唐書の列伝と資治通鑑も、国号を大秦、年号を応天とする。資治通鑑は、翌日に姚令言を侍中・関内元帥とし、弟の滔を皇太弟に立てたと記す。旧唐書の徳宗紀は朱泚が太尉を称したことを記すが、新唐書の徳宗紀は反したと書くだけで、即位も国号も年号も記さない。朱泚は自ら兵を率いて奉天に迫ったが、渾瑊らに大敗した。李懐光が来援すると、朱泚の軍は大いに潰え、奉天の包囲は解けた。784年、旧唐書の列伝は、朱泚が国号を漢と改め、天皇元年と称したと記す。新唐書は、本封の遂寧が漢の地だったので漢と号したとし、資治通鑑は漢元天皇と自称して天皇と改元したと記す。官軍が京師を取り戻すと、朱泚は数千人で西へ走ったが、泾州に着いたときは百余騎になっていた。泾州の田希鑑は城を閉じて朱泚を拒んだ。旧唐書の列伝は、朱泚が坑に墜ちたところを韓旻らが斬り、四十三歳で死んだと記す。朱泚を射て墜としたのを、旧唐書の列伝は梁庭芬と硃惟孝の二人とし、資治通鑑は梁庭芬ひとりとする。旧唐書の徳宗紀は、令言と朱泚を同じ条に置き、新唐書の徳宗紀は朱泚の伏誅を令言の翌日に置く。