楚・唐第1代分裂期の王朝
李希烈
在位 784年2月〜786年5月9日(2年98日)
李希烈の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 784年2月〜786年5月9日
- 没年
- 786年5月9日
- 死因
- 暗殺非業の死・365名中94名
- 即位経路
- 自立帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻百四十五/新唐書 巻二百二十五中(逆臣中)
- 即位経路
- 新唐書 巻二百二十五中
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李希烈は遼西の人で、淮西節度使として反し、784年に汴州で皇帝を称して楚を立てた。786年、病んだところを部将の陳仙奇に毒殺された。
即位まで
旧唐書は、李希烈は李忠臣が淮西節度使となると偏裨に署され、のち蔡州刺史・淮西節度留後を授けられたと記す。忠臣が追われた経緯を、旧唐書は張恵光父子が斬られて忠臣が朝廷へ奔ったとし、新唐書は忠臣の統治が荒れて衆が怒り、忠臣を逐ったとする。782年、朱滔・田悦・王武俊・李納が王を称すると、希烈も建興王・天下都元帥を称した。783年、希烈は汝州を落とし、使いに来た顔真卿に暴言を吐いた。徳宗が奉天へ逃れたその日に襄城で哥舒曜の軍を破り、勢いに乗って汴州を攻め落とした。希烈は性が惨毒で、戦陣で人を殺して血が前に流れても談笑飲食して平然としていた。
治世と最期
資治通鑑によれば、王武俊・田悦・李納が赦令を見て王号を去って謝罪したが、希烈だけは兵の強さと財の豊かさを恃んで称帝を謀った。希烈は顔真卿に即位の儀礼を問わせたが、真卿は、自分が覚えているのは諸侯が天子に朝する礼だけだと答えた。784年、汴州で皇帝位に即き、元号を武成とした。国号を、資治通鑑は大楚、新唐書は楚とし、旧唐書は記さない。希烈は鄭賁を侍中、孫広を中書令とし、李元平らを宰相に任じた。新唐書と旧唐書の徳宗紀には、希烈の称帝と武成の元号を記す条が無い。旧唐書の顔真卿伝は、784年に希烈が顔真卿を殺させたと記す。786年、希烈は牛肉を食べて病んだ。旧唐書は、部将の陳仙奇が医に薬を置かせて毒殺し、妻や兄弟ら十七人も誅されたと記す。医の名を、旧唐書は陳仙甫、資治通鑑は陳山甫とし、新唐書は挙げない。新唐書は、希烈の寵姫の窦氏が仙奇の妻に謀を伝え、仙奇が兵を率いて入って希烈の子を斬り、希烈と妻子の首七つを朝廷に献じたと記す。