唐統一王朝対立・僭称の皇帝
李承宏
在位 763年11月18日〜763年11月30日(12日)
姓李諱承宏
李承宏の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 763年11月18日〜763年11月30日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳365名中33名
- 即位経路
- 推戴対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻八十六/新唐書 巻八十(宗室伝)/資治通鑑 巻二百二十三
- 即位経路
- 資治通鑑 巻二百二十三/旧唐書 列傳第三十六 高宗中宗諸子/新唐書 列傳第六 三宗諸子/資治通鑑 巻二百十四
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李承宏は、763年に吐蕃が長安に入ったとき皇帝に立てられた唐の皇族である。郭子儀が長安を取り戻すまでの十数日だけ帝号を称した。
即位まで
旧唐書の列伝は、承宏を邠王守礼の子とし、開元の初めに広武郡王に封ぜられたと記す。資治通鑑は、736年に武温昚が権貴と交わった罪で杖殺された際、交遊の故に承宏が房州別駕に貶されたと記す。吐蕃を長安に引き入れたのは降将の高晖で、旧唐書の吐蕃伝は、高晖が吐蕃の大将馬重英らとともに承宏を帝に立て、年号を立て、大赦し、官員を置いたと記す。新唐書の列伝は、立てたのを吐蕃の宰相馬重英とし、新唐書の吐蕃伝は、赦令が勝手に出されたと記す。資治通鑑は承宏を、巻により守礼の孫とも子とも記す。
治世と最期
旧唐書の吐蕃伝は、吐蕃が長安に居座ったのは十五日で、その後に退いたと記す。資治通鑑は、吐蕃が去ったのは、長孫全緒の命で王甫が少年を集めて朱雀街で太鼓を打たせ、吐蕃が驚いたためと記す。承宏は草野に逃げ隠れ、代宗は赦して誅さず、764年に華州へ放った。旧唐書の列伝は、とどめた先を虢州とする。没年と死因は、旧唐書・新唐書・資治通鑑のいずれにも記述が無く、旧唐書の列伝と新唐書の列伝は死んだとだけ書く。承宏が称した年号の名も、この三書に記されていない。
在位中の出来事(2件)
大赦763年11月
改元763年11月18日
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑